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 【静岡】 フランスから帰国、旧主蟄居中の静岡へ - 静岡藩仕官時代 【『渋沢栄一伝記資料』第2巻掲載】

明治元(1868)年12月23日(28歳)
是より先十二月八日帰京の後凡そ十日公私の用務を整理し、同月十九日徳川昭武の親書並に渡仏一行の費用の勘定書を持して静岡に到る。是日前将軍徳川慶喜に静岡宝台院に謁して帰朝の復命を為し、昭武の親書を上る。慶喜内命を下して栄一を静岡に留まらしめ、勘定組頭となし、尋で勘定頭支配同組頭格御勝手懸り中老手附を命ず。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 1編 在郷及ビ仕官時代 天保十一年−明治六年 / 2部 亡命及ビ仕官時代 / 3章 静岡藩仕官時代 【第2巻 p.70-93】

 徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ、1837-1913)の弟、昭武(とくがわ・あきたけ、1953-1910)の随員として渋沢栄一(当時篤太夫)がフランスに滞在している間、日本では大政奉還があり、慶喜は蟄居謹慎の身の上となりました。1868(明治元)年に帰国した栄一は、整理や報告を終えた後、残りの生涯を旧主のもとで送る決意をしました。12月19日、静岡に到着した栄一は油屋に投宿。同月23日、栄一は慶喜が蟄居している宝台院を訪ねて旧主に拝謁、帰国の報告をしています。
 その後、栄一は静岡藩仕官を命じられ、翌1869(明治2)年の1月には宝台院近くの旧代官屋敷に商法会所(後の常平倉。銀行と商社の業務を行う合本組織)を開き、さらに養蚕の普及など地域の農業振興にも力を尽くしました。
 やがて慶喜は謹慎をとかれて代官屋敷に転居、それに伴い代官屋敷を役宅としていた栄一は近隣の教覚寺に移転、商法会所は後に呉服町へと移転しました。同年10月、明治政府から大蔵省勤務の強い要請を受けた栄一は静岡に心を残しながらも東京に移り、慶喜もまた1897(明治30)年には東京に居を移しています。

  • 静岡到着後の栄一の足跡 (『渋沢栄一伝記資料』第2巻p.89-93,199,203より)
    • 1868(明治元)年
       12月19日   静岡到着。油屋に投宿
       12月23日   宝台院にて徳川慶喜に拝謁
       12月24日   御勘定組頭被命
       12月27日   呉服町5丁目2の川村屋(傘・下駄)2階に移動
    • 1869(明治2)年
       1月14日    空家であった旧代官屋敷跡を事務所として商法会所を開設
       1月15日    大久保一翁より、役宅のつもりで商法会所に移住するよう指示
       1月末〜2月  川村屋から商法会所内へ移転
       2月頃      家族を静岡に呼び寄せ
       10月3日    慶喜が代官屋敷へ転居したことに伴い、栄一と家族は教覚寺へ転居。
                商法会所は呉服町の旧目付屋敷へ移転。
       10月18日   栄一、明治政府から召喚。
       11月      栄一、東京で家探し。
       12月18日   栄一の家族、静岡より本郷湯島天神中坂下に転居。


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