情報資源センター・ブログ

情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 【帝国ホテル. 2】 建築準備を開始。「西洋の真似ばかりするのも面白くない、さりとて純粋の日本式では御客の外人が困まる事であらう」

1887(明治20)年12月14日
日栄一、東京ホテル発起人総代として大倉喜八郎連署して、日本土木会社内に仮事務所設置の件並に事務開始の件及び役員氏名を東京府知事に届出づ。栄一理事長たり。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 1部 実業・経済 / 3章 商工業 / 27節 ホテル業 / 1款 株式会社帝国ホテル 【第14巻 p.380-382】

 1887(明治20)年12月14日、渋沢栄一はホテル設立のため仮事務所等の届を東京府に提出しました。仮事務所が設置された日本土木会社は発起人のひとり、大倉喜八郎(おおくら・きはちろう、1837-1928)が経営する会社で、帝国ホテルの建築施工を担当した会社です。国を代表して外賓をもてなすホテルの建設には、さまざまな議論があり、設計においても紆余曲折がありました。

会社創立御願
「御届書」(1887(明治20)年12月14日)
簿冊「(普通第2種) 願伺届録・会社(規則)・綴洩・6冊ノ内 〈農商課〉」(請求番号:616.C6.10)所収
東京都公文書館所蔵
 >> 『伝記資料』における翻刻(第14巻p.380-381)

 帝国ホテルの建築について、栄一は晩年に次のように語っています。

竜門雑誌  第四五五号・第八一―八三頁 大正一五年八月
    帝国ホテル青淵先生胸像
    除幕式に於ける式辞
[前略] ホテルを建てるとなると、其建物の様式に付て種々議論があつた。当時我々関係者の考として全然西洋の真似ばかりするのも面白くない、さりとて純粋の日本式では御客の外人が困まる事であらうと云ふ所から、基礎工事は洋式に則り、屋上は日本風、殊に古代建築を加味したらどうかと云ふので、当時政府が独逸より聘したエンデーボツクマン組合中の技術家及其部下の人々を態々京都奈良方面に旅行をさして、古社寺の建築法を研究せしめた事などもありました。斯くして前の焼けた建物が出来たのでありました [後略]
『渋沢栄一伝記資料』第53巻p.539)

 ヘルマン・エンデ(Hermann Gustav Louis Ende, 1829-1907)とウィルヘルム・ベックマン(Wilhelm Böckmann, 1832-1902)は、井上馨(いのうえ・かおる、1836-1915)の官庁集中計画で招聘されたドイツの建築家です。当初、帝国ホテルはエンデ・ベックマン組合による4層煉瓦造りの設計でしたが、建設予定地の地盤の脆弱さから工事が中断、渡辺譲(わたなべ・ゆずる、1855-1930)の設計による木骨煉瓦造3階建に変更となりました。渡辺譲はエンデ、ベックマンの要請でドイツに留学した経験を持つ若い建築家でした。写真に見る渡辺設計の建物には日本風の屋上は見あたりませんが、その内装には日本式の装飾がふんだんに施されていました。
 なおこのホテル建設過程について、『中外物価新報』(のちの『日本経済新聞』)などには次のように報じられていました。

中外物価新報  第一八九七号 〔明治二一年七月二六日〕
○ホテル会社株主の協議  東京ホテル会社の株主たる渋沢・益田・大倉其他の諸氏数名は一昨日午後七時頃より坂本町なる銀行集会所の楼上に会し協議を遂げられたるが、是は目下内山下町に建築中なる東京ホテル会社建築事務に付ての相談なりと聞けり
 
中外物価新報  第一九三六号 〔明治二一年九月九日〕
    建築廃止にあらず
昨今世上にてハ彼の渋沢・益田・大倉等諸氏の計画に係る内山下町に建築中のホテルハ今度全く廃止になりたりとて種々の噂を為すものあれど、実際決して左る事なく、最初の目算通り矢張り金二拾二万円を以て建設する筈なりと云へば、例の風説は又何かの誤聞なるべし
 
銀行雑誌  第一号・第六六頁 〔明治二一年一〇月二八日〕
東京ホテルを建築木造に変ず  東京ホテル建築の発起人並に株主中の渋沢・原・西村・山崎・横山・佐々木並に蜂須賀家代理の諸氏は先日坂本町の銀行集会所を借り受け、同ホテル建築改正の件にて会議を開き、同ホテルは元来石造或ハ煉瓦にて建築の見込なりしも同建築地所ハ地底砂地にして到底其見込なきに付き、更に其摸様を一変し堅固なる木造の建物を設る事に決し散会したりとぞ
 
中外物価新報  第二〇三〇号 〔明治二二年一月五日〕
    ホテルの建築工事
渋沢・益田・大倉等諸氏の計画に係る山下町のホテルの建築工事は今度いよいよ土木会社にて引受け、建築局技師渡辺譲氏に工事の監督方を嘱托せしが、明年中を期して竣工の見込なりと聞く
 
中外物価新報  第二〇七〇号 〔明治二二年二月二一日〕
    東京ホテル
資本金二十六万円(既払込金九万一千円)を以て東京山下門内に構造中の東京ホテルは建坪七百五十坪にして、食堂・会談室・舞踏室・遊戯室等の設け悉く備はらさることなく、実に日本第一のホテルなるが地形已に落成し目下専ら煉瓦の積立中なれば、明廿三年内国勧業大博覧会の開会迄にはセメテ下層だけなりとも竣功する様に相運はんとて工事監督技師渡辺譲氏及ひ工事を引受たる日本土木会社にては日夜勉強し居るよし
『渋沢栄一伝記資料』第14巻p.381-382)

参考リンク