1907(明治40)年1月25日
是日帝国ホテル株式会社、メトロポール・ホテル合併して株式会社帝国ホテル設立さる。栄一引続き取締役会長たり。
出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 1部 実業・経済 / 3章 商工業 / 27節 ホテル業 / 1款 株式会社帝国ホテル 【第14巻 p.399-406】
エミール・フライク(Emil Flaig, ?-1906)が支配人に就任した翌年の1903(明治36)年、帝国ホテルは開業以来の未曽有の盛況を迎えていました。フライクの経営改善が功を奏したことに加え、外国からの渡航者が増えたこともあり、同年4月5月は二か月続けて満室となりました。応接室や理髪室にベッドを入れて対応するほどで、この客室不足を解消するため、1906(明治39)年には本館裏手に木造2階建ての別館が増築されました(『帝国ホテル百年のあゆみ』p.14-15参照)。
さらに1907(明治40)年1月25日にはメトロポール・ホテルと合併。この合併を機に帝国ホテルは「帝国ホテル株式会社」から「株式会社帝国ホテル」に社名を変更、外国人にも人気のあったメトロポール・ホテルは帝国ホテル築地支店となりました。
メトロポル ホテル
『新撰東京名所図会. 第30編』
(『風俗画報』臨時増刊 第231号)
(東陽堂, 1901.04)
帝国ホテル常務小林武次郎氏の談
昭和二年七月九日訪問
[前略]
創立以来このホテルの成績は欠損続で、無論配当はしなかつた。[中略] ところが戦後非常に景気がよくなつて、客が満員となり、客室の不足を告げたので、資本金を四十万円に増加してホテルを増築すると同時に、築地にあつたメトロポール・ホテルを二十万円で買収して、再び資本金を百廿万円に増資したのです。ところが戦後の反動によつて世の中が不景気となつて、此のホテルの営業も次第に苦しくなつたので、遂にメトロポール・ホテルを手離したのです。此れは経常費の節約が主たる目的だつた。それからこの反動時代が過て、だんだん景気よくなつて、古いホテルが見すぼらしくなつて来た。これでは国際的に見つともないといふので、現在の敷地では手狭だから隣地に内務省の官宅があつたのを融通して貰はうといふことになり、子爵に交渉をお願したのです。このときは全く子爵御尽力のお蔭で、交渉が円満に片附いたのは子爵の御力でなければ出来なかつたことです。
[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第53巻p.543-544)
建て替えのための敷地調達交渉について、小林談話には「円満に片附いた」とありますが、実際には10年以上の歳月が費やされています。当時の栄一の日記には、帝国ホテル敷地の件で内務大臣や宮内省内蔵寮を訪れたこと、また修繕のことで建築家の渡辺譲らと面会したことなどが記されています。
麹町区之部 1903(明治36)年
(発行者不詳の地図より)
「内山下町一丁目」の区画に「帝国ホテル」と「内務大臣邸」が隣り合っている。
参考リンク
- [栄一ゆかりの企業] 【帝国ホテル】掲載予定(全16回)
〔実業史研究情報センター・ブログ「情報の扉の、そのまた向こう」 - 2014年4月14日〕
http://d.hatena.ne.jp/tobira/20140414/1397433298 - [社名変遷図紹介] ホテル業 〔商工業:ホテル〕 - 渋沢栄一関連会社社名変遷図
〔実業史研究情報センター・ブログ「情報の扉の、そのまた向こう」 - 2011年11月17日〕
http://d.hatena.ne.jp/tobira/20111117/1321492645 - 綱文番号DK140041k:本文_『渋沢栄一伝記資料』本文公開実験(帝国ホテル)
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一 / 『渋沢栄一伝記資料』〕
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/trial/14/DK140041k_text.html - 綱文番号DK140041k:資料リスト_『渋沢栄一伝記資料』本文公開実験(帝国ホテル)
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一 / 『渋沢栄一伝記資料』〕
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/trial/14/DK140041k_list.html