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 【帝国ホテル. 6】 渋沢栄一、帝国ホテルの取締役会長を辞任。「愛児の如く思われ、特に懐しい心地がする」

1909(明治42)年6月6日
是年栄一、古稀に渉るを以て第一銀行他少数の関係を除き、諸事業よりの引退を決意し、是日株式会社帝国ホテル取締役会長を辞す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 1部 実業・経済 / 3章 商工業 / 27節 ホテル業 / 1款 株式会社帝国ホテル 【第14巻 p.406-407】

 1909(明治42)年6月6日、渋沢栄一は第一銀行などの一部事業を除き、諸事業から引退しました。翌7月に刊行された『実業之日本』第12巻第14号には、栄一の所感がインタビュー記事として掲載されています。その中で栄一は「愛児の如く思われ、特に懐しい心地がする」事業のひとつとして帝国ホテルを挙げ、その一方で、同社の経営については「尚大に改良拡張を必要とする」と記しています。

実業之日本  第一二巻第一四号 明治四二年七月
    余は今後畢生の事業として如何なる方面に主力を注がんとするか
                   男爵 渋沢栄一
[前略] 各種事業の中で自分の発起して設立したものが少くない。此等は合本事業で多数の資本を集めたものであるが、私は自分の児飼から育てた愛児の如く思はれ、特に懐しい心地がする。其主要なものは、第一、東京貯蓄の両銀行を始として、[中略] 日本煉瓦、京釜鉄道、帝国ホテル、帝国劇場等の諸会社である。此等の諸会社は創立当時から関係したもので、直接に事務を担当こそせなかつたけれども、浮沈を共にして苦楽を共にして来たもののみである。
[中略]
 私が関係事業と縁を絶つたなら、それ等の事業の将来は如何になるか、是は私はよく受ける質問であるが、私は少しも心配することはないと思ふ。
 従来私は各事業に関係して居たが直接に仕事を見なかつた。適任者に托したのである。取締役会長として重役会に出席し意見を述べ又相談を受けたのであるが、平生は文鎮の如く自分では活動しなかつた。
 文鎮は多少の体裁もなくてはならぬ。又風が吹いても紙が吹き飛ばされぬだけの重みが要る。さればとて紙が破れるほどに重過ぎても困る。程よき重みと体裁がなくてはならぬ。
 私はこの文鎮の如きもので、平生は自働せず、一の置物の如くであるが、一朝事が起れば文鎮が活動し、文鎮でなければ解決の出来ぬこともあつた。
 私の関係した事業は大抵完成し、鞏固なる基礎の下に相当の利益を挙げて居る。尤も中には将来如何になるか分からぬものも二三事業ある。例へば [中略] 帝国ホテルの如きも尚大に改良拡張を必要とすることがある。事業の状態は夫々多少の異同あるが、其経営者又は使用人は学識人格が整ひ、手腕もあれば経験も積んで居る。私が此等会社と関係を絶つたからとて何等の心配もなく、基礎の鞏固なものは益々発達し、今進行の途上にあるものは益々其地歩を鞏くするを疑はぬ。
[後略]
『渋沢栄一伝記資料』別巻第6 p.449-451)

『実業之日本』12(14)p.7
『実業之日本』第12巻第14号(実業之日本社, 1909.07)p.7
(渋沢史料館蔵)

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