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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 【帝国ホテル. 7】 渋沢栄一、林愛作を支配人に斡旋。「結構、林愛作のホテルで充分思ふ様に経営してもらひたい」

1909(明治42)年7月16日
日栄一、山中商店ニュー・ヨーク支店主任林愛作を、当会社の取締役兼支配人として起用する件に関し、松本重太郎に書翰を送り、其尽力を依頼す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 2部 実業・経済 / 3章 商工業 / 16節 ホテル / 1款 株式会社帝国ホテル 【第53巻 p.532-534】

 1909年(明治42)年7月16日、渋沢栄一は実業界引退を表明した次の月に、関西の実業家、松本重太郎(まつもと・じゅうたろう、1844-1913)に書簡を送り、林愛作(はやし・あいさく、1873-1951)を帝国ホテルの支配人に斡旋するための助力を依頼しました。かつて経営改革を成し遂げたドイツ人支配人エミール・フライク(Emil Flaig, ?-1906)はこの3年前の1906(明治39)年帰国中に他界、その後エミールの代行を務めていた兄カール・フライク(Karl Flaig, 1865-1907)が支配人に就任するも1907(明治40)年に他界。1908(明治41)年にはスイス人支配人を迎えましたが、業績には結びつきませんでした。増築、合併、建物改修と大きな設備投資が重なったこの時期の経営不振で、帝国ホテルは開業以来の経営危機に直面していました(『帝国ホテル百年のあゆみ』p.14-17)。
 林愛作はホテル業への転身を躊躇しながらも、周囲の懇望に応えて帝国ホテルの支配人に就任しました。後に林はその際の経緯と栄一の言葉を、回想の中で次のように語っています。

林愛作談話筆記               (財団法人竜門社所蔵)
                     昭和一四年二月二三日
                     於林邸 石川正義筆記
 明治四十二年に私がニユーヨーク(当時氏は、ニユーヨーク在日本古美術商山中商店主任)より帰朝して、大阪の山中に暫く滞在しておりました。その時大倉喜七郎さんや、大阪の藤田伝三郎氏・松本重太郎氏等が直接にや、又手紙で、今度帝国ホテルで外人の支配人を廃して日本人にすることにしたが、適任者がなく是非君に御願ひしたいと再三勧告して来ました。
 私は永く山中商店におりまして、いろいろ向ふにも深い取引関係があり、ニユーヨークの生活にも慣れておりますし、どうもホテルに入ることを躊躇したので、頑として応じませんでした。
 ところが其後渋沢子爵などよりも、松本重太郎さん等に、たつての私の帝国ホテル入りの勧誘を依頼 前掲書翰参照 して来まして、私の知らない間に、山中商店の方に話をつけてしまつたのです。
 こうなつては、私も決心せざるを得なくなりまして、それでは御懇望に応じますと答へ、その代り懸案になつてゐる帝国ホテル改築を私が実行する事と、私が支配人になつた以上、株式会社帝国ホテルでなく、林愛作の帝国ホテルと考へてすべてを一任してもらひたいと答へました。渋沢さんは、そう云ふ熱心な人なら猶更結構、林愛作のホテルで充分思ふ様に経営してもらひたいとの事でした。こうして話が漸くまとまつたのはたしか四十二年の八月だつたと思ひます。
[後略]
『渋沢栄一伝記資料』第53巻p.532-533)

林愛作
株式会社帝国ホテル常務取締役兼支配人 林愛作君
『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(竜門社, 1911)所収

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