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 【帝国ホテル. 12】 渋沢栄一、寿像除幕式で訓示。「即ち凡そ事業は一人の力にて為し遂げられるものでなく、先づ第一に計画創業する人ありて、其の次に能力ある人が此れを受け継ぎ、始めて大成するものである」

1926(大正15)年7月13日
是日、当ホテルに於て、栄一の寿像除幕式挙行せらる。栄一出席して謝辞を述ぶ。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 2部 実業・経済 / 3章 商工業 / 16節 ホテル / 1款 株式会社帝国ホテル 【第53巻 p.538-540】

 1926(大正15)年7月13日、帝国ホテルにおいて渋沢栄一の寿像除幕式が開催されました。式典で朗読された帝国ホテル社長大倉喜七郎(おおくら・きしちろう、1882-1963)の式辞によると、この像は栄一の功績を「不朽ニ伝ヘ、聊謝恩ノ微意ヲ表」するため、株式会社帝国ホテル及従業員一同により製作されたものでした。その式辞を受けて栄一は次のように答辞を述べています。

竜門雑誌  第四五五号・第八一 ― 八三頁 大正一五年八月
    帝国ホテル青淵先生胸像
[前略]
    青淵先生の右答辞大要
[中略] 社長 [大倉喜七郎] の式辞の中に、私が此ホテルの創設に際し、且又爾来の経営につき大層功労のあつた様な御言葉が御座いましたが、敢て当りませぬのであります。抑も此帝国ホテルは明治二十年頃、当時の大問題であつた諸外国との通商条約が改正締結せられて、外国人の我国に来るものが益々多くなる。然るに其宿泊すべき適当な旅宿がない、此れは国の体面上から申しても甚だ面白くないと云ふ訳で、当時の外務大臣井上馨卿・総理大臣伊藤博文卿が頻りに心配し、且つ勧誘せられ、宮中の厚い思召もあつて、我々同志のものが発起して、茲に此帝国ホテルを設立することになつたのであります。[中略] 爾来着々穏健なる発展を遂げ、遂に今日の盛況を見るに至りましたのは、全たく時運の然らしむる所で、敢て私の功績ではないのであります。只当時私は偶然にも此仕事の中心位置に立つたと云ふに過ぎないにも拘はらず、斯の如き立派な像を御造り下さいました事は、呉々恐縮に感ずる次第であります。記憶が確かでありませぬが、宋の蘇東坡の或る文章中に智者始事能者述非一人而成也と云ふ句があります。即ち凡そ事業は一人の力にて為し遂げられるものでなく、先づ第一に計画創業する人ありて、其の次に能力ある人が此れを受け継ぎ、始めて大成するものであると云ふ意味と思ひます。私は敢て智者を以て任ずる訳ではありませぬが、とにかく帝国ホテルの創業に際し関係を致しました。
次ぎの社長として経営に任ぜられたのは今日此処に御列席の大倉男でありまして、能く之を承継し、更に三代目の現社長喜七郎君が今日の大を致されたのでありまして、私も其御蔭にて創業者たる名誉を荷ふ訳であります。私は今日御両君及現重役諸君に厚く感謝するのでありますが、同時に又諸君に於ても、時勢の進運に対して感謝せねばならぬと思ひます。御同様如何に辛苦経営しても、社会の進歩が満足でなければ事業の好況は望み得られぬものであります。
[後略]
『渋沢栄一伝記資料』第53巻p.539-540)

寿像除幕式における渋沢栄一
寿像前の渋沢栄一。1926(大正15)年7月13日の除幕式当日のものと思われる。
野依秀市編『青淵渋沢栄一翁写真伝』(実業之世界社, 194112)p.77掲載

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