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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 【帝国ホテル. 13】 大倉喜七郎、渋沢栄一の葬儀で思い出を語る。「青淵大人から思ふやうにやつて見ろと云ふお言葉を頂きまして、さうして一先づ帝国ホテルの改革が出来たのであります」

1931(昭和6)年11月15日
是月十一日栄一歿す。是日葬儀に際し、当会社取締役会長大倉喜七郎より弔詞を贈る。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 2部 実業・経済 / 3章 商工業 / 16節 ホテル / 1款 株式会社帝国ホテル 【第53巻 p.540-551】

 1931(昭和6)年11月15日、当時帝国ホテル取締役会長を務めていた大倉喜七郎(おおくら・きしちろう、1882-1963)は渋沢栄一の葬儀で弔辞を贈りました。そのなかで喜七郎は帝国ホテルで行った経営改革に言及、栄一への感謝の念と思慕を次のように述べています。

竜門雑誌  第五一九号・第五一 ― 五三頁 昭和六年一二月
    追悼晩餐会席上に於て
                   男爵 大倉喜七郎
[前略] 青淵大人 [渋沢栄一] には色々お世話を頂きました。其一端を申上げたいと思ひます。
[中略] 帝国ホテルの事でございます。此ホテルが財界の不景気――世界的不景気の為に、御承知の通り一番水商売でございますから収入が減りましてございます、前期は赤い字が出さうになりました、それも少からざる数字が現れるのではないかと云ふ心配がありました。それで是はどうしても整理をしなければならないと思ひまして [中略] 青淵大人と馬越翁とお二方に御相談申上げ、自分の案を出しまして、どうか御採用を願ひたいと云ふことを申上げました。さうして出しました案は、先づ第一に帝国ホテルの社長の馘首をやる、それから次に常務及常任監査役、それから追追怠けて居る者は御免を蒙る、と云ふ案を出しました、どうも私が社長でございますけれども、自分だけ残つて他を馘首と云ふ訳にも行きませぬし、何しろ常務と常任監査役を馘らうと云ふのでございますから、自分も首を馘られやう。併ながら若しお目鏡に叶つたら、繋いで頂かう。誠に横着の案でありますけれども、自分としてはダヾを捏ねる以上は徹底的にダヾを捏ねると申上げまして、中へお這入りになつた渡辺得男君に大分御迷惑を掛けたやうな次第で、結局青淵大人から思ふやうにやつて見ろと云ふお言葉を頂きまして、さうして一先づ帝国ホテルの改革が出来たのであります。斯様に私がダヾを捏ねましたり、密に駈付けて教を受けたりする、私に取りましては大事な師でもあり、父亡き後は恰も父より以上にお慕ひ申上げた青淵翁が逝かれましたと云ふことは、実に私に取りましては父を亡くしまして未だ三年涙新なるときに再び青淵翁を送りましたことは、実に申上げる言葉もない位に、自分としても感じが深い次第でございます ○下略
『渋沢栄一伝記資料』第53巻p.548-549)

 1922(大正11)年5月に会長に就任した大倉喜七郎は、「帝国ホテルは国際的に重大な意味を持つもの」で「その業務を如何なく遂行することが国家奉公の第一義」とし、同社経営に尽力しました。業界団体の日本ホテル協会では大倉喜八郎(おおくら・きはちろう、1837-1928)、阪谷芳郎(さかたに・よしろう、1863-1941)に続き、第3代会長を務め、1930(昭和5)年に設置された政府諮問機関、国際観光委員会のメンバーにも名を連ねています。
 栄一他界2年後の1933(昭和8)年頃より、国際観光振興の一環として政府の資金融資もあり、各地に多くの国際的なホテルが建設されました。帝国ホテルはこの時に設立された川奈ホテルや赤倉観光ホテルなど、種々の後進ホテルにも関与・支援をしています。
『The Travel Bulletin』No.118

『The Travel Bulletin』No.118(N.Y.K. Line, 1935.04)p.112掲載(早稲田大学図書館所蔵)
1935(昭和10)年2月22日に帝国ホテルで開催された日本ホテル協会の集合写真。32のホテルから経営者や支配人が集結した。前列右から6人目が喜七郎。

参考リンク

更新履歴

2014.05.30:日本ホテル協会の集合写真を追加