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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 【帝国ホテル. 16】 〔番外編5〕 白石喜太郎著『渋沢栄一翁』(1933)に見る帝国ホテル

 『渋沢栄一翁』は渋沢栄一の秘書白石喜太郎(しらいし・きたろう、1888-1945)により著された伝記です。執筆は栄一存命中から行われ、伝記として一冊にまとめられたのは栄一が他界してから2年後の1933(昭和8)年のことでした。本文は栄一の生涯を季節に譬えて、第一篇冬、第二篇春、第三篇夏、第四篇初秋、第五篇仲秋、第六篇晩秋の6篇で構成されており、帝国ホテルはその中の「第二篇『春』 三.実業界の基礎工事」に出現します。

白石喜太郎著『渋沢栄一翁』 (刀江書院, 1933.12) p.370-372

第二篇 「春」
        その十六 帝国ホテル
 帝国ホテルの沿革は実に近代日本の歴史である。三百年の鎖国によつて、封鎖経済を営んだ日本が、明治維新によつて急に海外文明の洗礼を受け、力限り先進国の跡を追うたことは既に記した。俄かに鎖国の夢破れた当時の日本には、殆ど科学的の施設は無かつた。今見る『ホテル』のなかつたことは勿論である。斯る折柄条約改正に関聯し、生活程度の向上、欧米式生活の急施が必要になつた。かくて政府は臨時建築局を設けて頻りに煉瓦建築を起し、『鹿鳴館時代』を現出して一般を導き、只管欧化主義の普及に努めた。この運動の中心であつた井上馨が子爵と大倉喜八郎とに説き、『ホテル』を設けることになつた。
 『官命のホテル発起人』として子爵及び大倉が起つた。従つてホテル会社――正確には『有限責任帝国ホテル会社』――は麹町区内山下町に四千二百坪の土地を六十年間政府から借りる権利を得た。かくて資本金二十六万円を以て明治二十三年十一月創立せられたのが、最初の『帝国ホテル』であつた。
 『今から考へると不可思議であるけれども、当時は宿泊者平均一日十四人以下で、食事を摂るもの平均十五人、御茶の数平均十五であつた。これは日本ホテル業初期の実状である。年経つて後考へると不思議であるが、日本の首府に於ける最初のホテルの主なる目的は、単に国際儀礼の意味より海外からの来訪者を厚遇する場所を有することであつた。』と同ホテル取締役兼支配人犬丸徹三氏が、『帝国ホテルの沿革』の中に記した様に其経営は甚だ振はなかつた。然し当時の華やかな社交をリードした天長節の夜会――流行のトツプを切つた鹿鳴館の夜会の料理を引受けたことは、ホテルの歴史の第一頁を飾る光栄であつた。子爵は創立と共に理事長となり全般を総理した。明治二十六年商法の規定に準拠し、組織を更めて株式会社とし、子爵は取締役会長となつた。明治二十七年濃尾震災と共に起つた地震によつて建物全体に大打撃を受け、又日清戦争の勃発によつて営業上に影響を受けた。然し常務取締役横山孫一郎の奮闘と、日清戦争の栄ある結果とによって、漸次業況恢復の域に達するを得た。明治三十二年今の京浜鉄道線の高架線が出来、鉄道作業局より敷地賠償金を得て本館の外観を整へると共に、内容充実に努力し、又此頃子爵が力を尽した喜賓会と提携して海外よりの来遊を勧めた。かくて明治三十五年三月エミール・フレーグを営業部長として迎へ、社内諸設備の改善、職制の変更、及び人事の異動を断行した。日露戦争後増資して資本金を四拾万円とし、同時に従来一株金百円であつたのを五拾円に更めた。明治三十九年十一月築地にあつたメトロポール・ホテルとの合併問題が起り、四十年一月の株主総会に於て之を決し、同時に株式会社帝国ホテルと名称を更め、資本金を倍額八拾万円に増加した。此時新たに選まれた重役は十人で、子爵が会長となり、取締役には大倉喜八郎、原六郎、村井吉兵衛、若尾幾造、横山孫一郎等が当選し、監査役として浅野総一郎、喜谷市郎右衛門等が選挙せられた。此等堂々たる幹部が最初に悩まされたのは不況の対策で、其為め外国人の従業者全部を解傭し、又メトロポール・ホテルを季節的に営業することとし、林愛作を支配人として迎へた。かくて明治四十二年十月子爵が取締役会長を辞するや、大倉喜八郎は其後を襲うた。爾来子爵は相談役として経営に関与し、大正五年今のホテル――ライト式建築の案を可決し、愈其実行に着手したとき、敷地の買収、資金の調達等に付て尽力し、遂にあの建築を完成せしめたのであつた。

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