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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 「成瀬仁蔵」を検索すると - 人名・団体名編

 NHK朝の連続ドラマ「あさが来た」では、女子大学の設立に奔走している成澤泉が登場しました。この人物は実在の「成瀬仁蔵」(なるせ・じんぞう、1858-1919)がモデルと言われています。そこでこの「成瀬仁蔵」を「渋沢社史データベース」(略称:SSD)を使っておもしろ社史検索してみたところ、下記のようにヒットしましたのでご紹介します。なお成瀬仁蔵の略年譜を末尾につけましたので参照ください。

成瀬仁蔵」の検索結果と、見えてくること

年表 (「年表項目検索」の結果)

 年表項目でヒットした7件は全て婦人新聞社の『婦人界三十五年』でした。そこには成瀬が日本女子大学校を設立する前後から、没後の顕彰事業にいたる事項が載っていました。1910年には成瀬と共に渋沢栄一、森村市左衛門が、「女子高等教育奨励のため信越地方遊説」したことが出ています。栄一は日本女子大学校の設立と運営に多大な尽力をしていますが、その一端が社史にあらわれているのがわかります。

月日事項出典社史業種
明治33年(1900)6月成瀬仁蔵氏主唱の女子大学、位置は大阪と内定し居りしを東京に変更、正式に確定婦女新聞社『婦人界三十五年』サービス業
明治33年(1900)7月日本女子大学校創立委員会に於て校長は成瀬仁蔵氏に決定、三井家の寄附に依て東京小石川区田豊川町に建築を始む婦女新聞社『婦人界三十五年』サービス業
明治43年(1910)8月△女子大学校長成瀬仁蔵、男爵渋沢栄一、森村市左衛門氏女子高等教育奨励のため信越地方遊説婦女新聞社『婦人界三十五年』サービス業
大正4年(1915)11月成瀬仁蔵、宮川保全、津田梅子、嘉悦孝子、矢島楫子、佐藤静子の各氏いづれも女子教育の功績により勲六等に叙せられ男子は瑞宝章女子は宝冠章を授けらる婦女新聞社『婦人界三十五年』サービス業
大正8年(1919)1月30日日本女子大学校長成瀬仁蔵氏其の病の癒ゆべからざるを覚悟し、三十日椅子に坐したるまゝ舁かれて講堂に臨み悲壮なる生前告別をなして学校の為に遣言す婦女新聞社『婦人界三十五年』サービス業
昭和4年(1929)3月△女子大学創立者成瀬仁蔵氏十年祭婦女新聞社『婦人界三十五年』サービス業
昭和4年(1929)9月成瀬仁蔵銅像軽井沢に建つ、製作者は素人彫塑家三井高修氏婦女新聞社『婦人界三十五年』サービス業

目次 (「ワード検索」の結果)

 目次で1件ヒットしたのは同じく婦人新聞社の『婦人界三十五年』でした。SSDの検索結果として表示されている社史タイトル「婦人界三十五年」をクリックすると、目次項目の2箇所に成瀬が登場しているのがわかります。さらに、画面右の「表示切替」を「ハイライトのみ表示」から「全目次一覧」に切り替えてみると、成瀬のでてくるp700とp766の前後には津田梅子、下田歌子といった女子教育に尽力した人々や、「あさが来た」の主人公のモデル「広岡浅子」もでてきているのがわかります。

会社名業種社史タイトル出版年該当数目次項目より
婦女新聞サービス業婦人界三十五年1935.052成瀬仁蔵氏 / 女子教育の殉教者成瀬仁蔵

索引 (「ワード検索」の結果)

 実業之日本社蛇の目ミシン工業の社史に成瀬がでていました。SSDの検索結果として表示されている社史タイトル『実業之日本社百年史』をクリックすると、索引項目「成瀬仁蔵」が現れます。その文字列をクリックすると、成瀬が登場するのが「『婦人世界』の創刊」の項目だとわかります。『蛇の目ミシン創業五十年史』も同様に操作していくと、「3 鹿鳴館後の服装の変遷」の項目の中に成瀬が登場しているのがわかります。

会社名業種社史タイトル出版年該当数索引語より
(株)実業之日本社サービス業実業之日本社百年史1997.121成瀬仁蔵(1p)
蛇の目ミシン工業(株)機械蛇の目ミシン創業五十年史1971.11成瀬仁蔵(1p)

成瀬仁蔵 略年譜

西暦(和暦)項目
1858(安政5)長州藩士の長男として山口県に生まれる
1863(文久3)郷校憲章館に入学
1868(明治元)憲章館廃止され、1873年まで近隣の私塾で漢学を学ぶ
1874(明治7)山口県の医師の元で調剤手となり、物理学を学ぶ
1875(明治8)山口県の教員養成所に第2期生として入学、翌年卒業し、同県室津小学校訓導となる
1877(明治10)同郷の宣教師沢山保羅(ぽーろ)に導かれ、大阪の浪花教会で受洗
1878(明治11)沢山保羅により梅花女学校開校、成瀬は1882年まで教師をつとめる
1883(明治16)以降、大和郡山教会、新潟教会の牧師として伝道活動。新潟女学校を興し、女子教育に尽力
1890(明治23)渡米、アンドーバー神学校、クラーク大学に学び、女子教育、教育機関、社会事業施設を調査研究、『沢山保羅伝』出版
1894(明治27)帰国、梅花女学校校長
1896(明治29)『女子教育』出版、梅花女学校を辞し、女子大学設立運動に着手
1901(明治34)東京・目白に日本女子大学校開校
1912(明治45)帰一協会設立、欧米旅行、翌年帰国し政府の教育関係委員として活躍
1919(大正8)告別講演、永眠
参考文献:『あなたは天職を見つけたか : 日本女子高等教育の父成瀬仁蔵』(日本女子大学成瀬記念館、2008)p132-136「成瀬仁蔵略年譜」

参考リンク

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