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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 「広岡信五郎」を検索すると - 人名・団体名編

 NHK朝の連続ドラマ「あさが来た」では、主人公白岡あさの夫、白岡新次郎がさまざまな場面で活躍しています。この人物は実在の「広岡信五郎」(ひろおか・しんごろう、1841?-1904)がモデルと言われています。そこでこの「広岡信五郎」を「渋沢社史データベース」(略称:SSD)を使っておもしろ社史検索してみたところ、下記のようにヒットしましたのでご紹介します。なお広岡信五郎関係略年譜を末尾に付けましたのでご参照ください。

「広岡信五郎」の検索結果と、見えてくること

年表 (「年表項目検索」の結果)

 年表では『ニチボー75年史』『ユニチカ百年史. 下』『麻生百年史』に信五郎が登場しています。信五郎が初代社長を務めた尼崎紡績は、合併等により大日本紡績、ニチボー、ユニチカと社名変遷しており、それぞれの社史に信五郎が登場しています。一方『麻生百年史』を出した麻生セメントは、当初九州筑豊で石炭採掘事業を行っていました。広岡家が手掛けた潤野(うるの)炭鉱も同じ地域でしたので、社史の年表に信五郎が登場したのでしょう。

月日事項出典社史業種
明治22年(1889)5月(尼崎紡績) 有限責任尼崎紡績会社は尼崎地元と大阪財界の合力によって広岡信五郎ら45名の発起人きまり、広岡ら10名の創立委員を選ぶ。ニチボー(株)『ニチボー75年史』繊維
8月12日(尼崎紡績) 大阪市中之島洗心舘の発起人総会で役員を選挙。役員の互選により初代社長に広岡信五郎就任。ニチボー(株)『ニチボー75年史』繊維
8月12日初代社長に広岡信五郎就任(8/12)ユニチカ(株)『ユニチカ百年史. 下』繊維
明治28年(1895)-広岡信五郎、潤野炭坑開坑麻生セメント(株)『麻生百年史』窯業
明治37年(1904)7月5日(尼崎紡績) 初代社長広岡信五郎没。ニチボー(株)『ニチボー75年史』繊維
7月5日初代社長広岡信五郎没(7/5)ユニチカ(株)『ユニチカ百年史. 下』繊維

目次 (「ワード検索」の結果)

 『三井事業史. 資料篇 4 上』の目次に、「(18回)3・15 広岡信五郎貸金処分ノ件」という項目がありました。これは「三井商店理事会議事録」の一部で、本文を見ると三井商店から信五郎への貸金について、申し入れにより条件を改める件を了承した、という内容でした。広岡浅子は三井家の出身でしたので、嫁ぎ先の加島屋の事業に三井が資金を融通していたことが社史からうかがえます。

会社名業種社史タイトル出版年該当数目次項目より
三井商社三井事業史. 資料篇 4 上1971.08
1
(18回)3・15 広岡信五郎貸金処分ノ件

索引 (「ワード検索」の結果)

 『ニチボー75年史』『日綿70年史』の索引に信五郎が登場していました。日綿(現・双日)は信五郎が設立に関わった棉花の輸入会社である日本綿花の後身です。浅子に劣らず活躍していた信五郎の横顔が社史からうかがえます。

会社名業種社史タイトル出版年該当数索引語より
ニチボー(株)繊維ニチボー75年史1966.021広岡信五郎(1p)
日綿実業(株)繊維日綿70年史1962.111広岡信五郎(2p)

広岡信五郎関係略年譜

西暦(和暦)項目
1841(天保12)?このころ信五郎誕生か(浅子2歳の時、10歳の信五郎と結婚が決まったと大同生命のサイトにあり、8歳の年齢差から推測)
1849(嘉永2)浅子生まれる
1865(慶應元)信五郎と浅子結婚
1884(明治17)浅子、石炭事業に着手
1888(明治21)加島銀行設立
1889(明治22)信五郎、尼崎紡績初代社長に就任
1892(明治25)信五郎、日本綿花の発起人
1895(明治28)潤野炭坑開坑、朝日生命設立
1896(明治29)浅子、成瀬仁蔵と出会う
1898(明治31)三井商店、信五郎貸金処分
1901(明治34)日本女子大学校開校
1904(明治37)信五郎没
1919(大正8)浅子没

参考リンク

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