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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 慶応2年丙寅8月11日[西暦:1866年9月19日] (26歳) 長州への出征 【『渋沢栄一伝記資料』第1巻掲載】

是より先、一橋慶喜将軍の名代として長州に出征せんとす。栄一従軍を命ぜられ、是日勘定組頭を以て御使役に兼任し、而して御用人手附を仰付けらる。栄一乃ち手書及び懐剣を夫人に贈りて別を告ぐ。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 1編 在郷及ビ仕官時代 天保十一年-明治六年 / 2部 亡命及ビ仕官時代 / 1章 亡命及ビ一橋家仕官時代 【第1巻 p.412-427】
・『渋沢栄一伝記資料』第1巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/01.html
1866(慶応2)年、一橋慶喜(徳川慶喜)に仕えていた渋沢栄一は長州出征への従軍を命じられましたが、7月に将軍家茂の薨去もあり、長州への出征は急遽中止となりました。
1887(明治20)年に47歳の栄一は当時を回顧し、その心境は『雨夜譚』に綴られていますが、『渋沢栄一伝記資料』第1巻にはそこからの転載として、以下のように記されています。

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之三・第八―一〇丁〔明治二〇年〕

[前略] 此の時に自分も長州征伐の御供を命ぜられて、勘定組頭から御使番格に栄転した、前にも述べた通り、自分は勘定組頭の職を命ぜられてからは、一図に一橋家の会計整理に力を尽して、種々勘定所の改良を勉めて居たが、右の如く君公御出馬といふ場合になつては、腰抜け武士となつて人後に落ることは好まぬ気質だから、強て従軍を願つて、御馬前で一命を棄る覚悟でありました、○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.413)

また同書p.425-426には、出征を前に栄一が千代子夫人に送った書簡が転載されています。