会員組織による共同相場会所の設立は栄一の素志なり。今や機熟せるを以て、大倉喜八郎・益田孝等と謀り、之が計画書を草しつつありしが、是日稿成り、農商務次官吉田清成に通告す。
出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 1部 実業・経済 / 3章 商工業 / 25節 取引所 / 1款 東京株式取引所 【第 13巻 p.401-412】
・『渋沢栄一伝記資料』第13巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/13.html
1886(明治19)年当時、米商会所、株式取引所における投機本位の取引が問題となり、投機を目的としない「会員組織による共同相場会所」への移行が企図され、翌1887(明治20)年に取引所条例、いわゆる「ブールス条例」が公布されました。ブールス(Bourse)とはフランスの取引所のことで、栄一も徳川昭武の随員としてパリ滞在中にブールス(パリ証券取引所)を利用しています。
フランスのブールスや外国の取引所条例を範としたブールス条例は、あまりに急激な改革であったため関係者から猛反対が起こり、後に事実上撤回されました。
雨夜譚会談話筆記 下・第六三八―六四〇頁 〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
第二十三回雨夜譚会 ○昭和四年二月十六日 於丸ノ内仲通渋沢事務所
「○中略 明治十一年に成立したのが東京株式取引所であります。[中略] 成立したものに対しても少し改善せねばならぬ、第一に株式会社であるよりも、会員組織の方がよい、[中略] 当時、井上さんが農商務大臣となつて居り、色々外国の事情や実際の取引の有様を調査せしめた。然し制度の改正は遂に出来ず今日に及んで居る。[中略] 理論の上から取引所は株式組織よりも会員組織の方がよいと論じたが、其の通りにはならなかつた。又事実上私達が最初論じたやうに投機的でない取引は行はれなかつたのである。
現在に就ても懸念が多い。然しなくてはならぬものであるから今日の取引の風習は弊害あると共に利益もあると云はざるを得ません。」
(『渋沢栄一伝記資料』第13巻p.402)
参考:吉田清成(よしだ・きよなり、1845-1891)
外交官。大蔵省から駐米公使を経て、農商務次官、元老院技官、枢密顧問官。
参考文献:『日本人名大辞典』 (講談社, 2001.12)
「取引所法」の制定 - 明治・大正の経済界昔話(1) / 石井裕晶
〔ワシントン日本商工会ホームページ〕
http://www.jcaw.org/news/story/2006/200609/ishii.html
東京証券取引所50年史 / 日本経営史研究所編
〔NACSIS Webcat〕
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA60250495