出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 2部 実業・経済 / 3章 商工業 / 6節 窯業 / 3款 浅野セメント株式会社 【第52巻 p.538-539】
・『渋沢栄一伝記資料』第52巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/52.html
浅野総一郎(あさの・そういちろう、1848-1930)はセメント、石炭、海運など多角的な事業展開をした実業家で、渋沢栄一ともに関わりの深い人物でした。『渋沢栄一伝記資料』第52巻p.538には、1930(昭和5)年11月9日に浅野が他界、13日午前10時30分より芝区田町の本邸で葬儀が執行されたことが『竜門雑誌』第506号(1930.11)からの転載として紹介されています。
また『渋沢栄一伝記資料』第57巻p.460-462には、渋沢栄一による追悼文が『竜門雑誌』第506号p.1-5からの転載として紹介されています。
浅野総一郎氏を追悼す
青渊先生
[前略] [浅野総一郎は]行ふ仕事が新らしく大きく、成就すれば国の為め世の為めになることであつて、口にはそうは云はないが、事実は国の為め世の為めに働いたことになるのであります。而も算盤を持つてかゝるのであるから、世の算盤が立たず議論のみする学者や、自分の算盤勘定ばかりで世を渡つて行く者等とは比較にならぬ人でありました。其上事業に就ては単に一局部ではなく全体の成行を見極める能力があり、その事を起す場合に於ても順当の経路を踏んで行くといふ風で、感心にその見込みが早く立つのでした。即ち斯うして会つて話して居る間に、私は浅野さんの人と成りを知り、自然に親密の度を加へて行つた [中略] 誠に浅野さんといふ人は素直で、遠慮がなく、物判りがよく、快活で気持のよい人でありました。たゞ事業上から云へば、今少し早く総ての事業の締括りをして居たならよかつたらうと思ふのでありますが、それは今に及んで云ふ私の愚痴に近い望みでありませう。(十一月十日談話)
(『渋沢栄一伝記資料』第57巻p.461-462)
参考:浅野総一郎
〔企業情報 - 東亜建設工業〕
http://www.toa-const.co.jp/company/asano/index.html
渋沢栄一関連会社社名変遷図 >> セメント製造業
〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕
http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/companyname/009.html