情報資源センター・ブログ

情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 1901(明治34)年12月26日 (61歳) 東京手形交換所、忘年会での挨拶 【『渋沢栄一伝記資料』第7巻掲載】

銀行倶楽部に於て当交換所組合銀行忘年会を開催す。栄一一場の挨拶を為す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 1部 実業・経済 / 1章 金融 / 2節 手形 / 2款 東京手形交換所 【第7巻p.394-396】
・『渋沢栄一伝記資料』第7巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/07.html

1901(明治34)年12月26日、銀行倶楽部において東京交換所組合銀行の忘年会が開催されました。『渋沢栄一伝記資料』第7巻には『銀行通信録』第33巻第195号(1902.01)からの転載として、忘年会に日本銀行から山本達雄総裁、高橋是清副総裁ら38名を来賓として迎えたこと、また委員長として渋沢栄一が行った挨拶の内容などが紹介されています。
金融恐慌が起こったこの年、複数の銀行で取り付け騒ぎが見られ、自主廃業をする銀行もありました。栄一は忘年会挨拶の中で次のように語っています。

[前略] 今夕此処に集りました組合銀行の、日本銀行に対する関係の親密にして、又今日は勿論将来に離るべからざるは殊更申すまでもございませぬ、既往を顧みますれば、十四五年以前に手形交換といふ方法を企てゝ、亜米利加の交換所の遣り方を取つて雛形を作りました
以来、常に日本銀行のお蔭を蒙りて、二十四年に此組合が成立ちましたが、其後日本銀行は或は監督の位地に立ち或場合には保護を下すつて、遂に大体交換の仕事も増進し且つ其事業も発達して参りました、是れは我々の共に感銘して忘れむと欲して忘れることは出来ぬのでございまする、斯様に我々が此交換所に力を入れると云ふものは、一には己れの事業の為めとは云ひながら、モウ一歩進んで言ふたならば国家の信用を発達せしむる一の方法であつて、単に自家の利益と考へることは出来ませぬ、然らば日本銀行が斯様に保護奨励を下さるのも、金融機関の甚だ重要なと云ふ事から保護されることであらうと思ひまするで、未来と雖とも尚ほ弥増しに斯るお世話も亦た御懇親も継続するであらうと、私は信じて疑はぬのであります、[中略]
 昨年若くは当年あたりは我々の眼前に多少憂ふべき事柄がございますけれども、是は我々共も亦た自ら能く警戒して、将来に此憂ふべき事が数多く生ずる事のないやうに、不祥な言語の出ないやうにお努めあらむことを希望するのであります [後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第7巻p.395-396)

参考:[今日の栄一] 1891(明治24)年2月28日(51歳) 東京手形交換所設立
〔実業史研究情報センター・ブログ「情報の扉の、そのまた向こう」 - 2008年2月28日〕
http://d.hatena.ne.jp/tobira/20080228/1204161426
参考:手形交換制度の発達
〔貨幣の散歩道 - 日本銀行金融研究所貨幣博物館
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_49.htm