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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1906(明治39)年1月7日 (65歳) 女婿、阪谷芳郎の大蔵大臣就任 【『渋沢栄一伝記資料』第29巻掲載】

是日阪谷芳郎第一次西園寺内閣の大蔵大臣に就任す。二月十一日、渋沢・穂積両家之が祝宴を飛鳥山邸に催す。四月四日、栄一門下の有力者上野精養軒に祝宴を催し、栄一之に出席して総代佐々木勇之助の祝辞に対し、答辞を述ぶ。四月七日阪谷芳郎、永田町大蔵大臣官邸に近親を招く。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 3部 身辺 / 1章 家庭生活 / 1節 同族・親族 / 1款 同族 【第29巻p.76-78】
・『渋沢栄一伝記資料』第29巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/29.html
渋沢栄一の女婿、阪谷芳郎(さかたに・よしろう、1863-1941)が第一次西園寺内閣の大蔵大臣に就任したのは1906(明治39)年1月7日のことでした。『渋沢栄一伝記資料』第29巻p.76-78には阪谷就任の2日前に栄一から阪谷に宛てた書簡が収録されています。その中で栄一は、いろいろご心配のことと思います、と阪谷の心情を慮りながら、新組織の内閣が果たして健全無傷といえるかどうか予測しかねるが、政治社会に立つ者としては危険を見て遁れるのは義者のすべきことではないと思うので「自然之成行ニ御任せ被成候方と存候」と述べています。
この就任について、栄一は就任を祝う4月4日の宴で「古文真宝[こぶんしんぽう。中国の詩文集]の待漏院記」を引用して「喜びとともに憂いの念がある」と述べながら、「博士には国家の為め愈々増々努力せられんことを望む」と阪谷を激励しています(『渋沢栄一伝記資料』第26巻p.374-375)。
阪谷は2年後の1908(明治41)年4月に大蔵大臣を辞職、後年に東京市長貴族院議員などを務めています。
参考:阪谷芳郎
〔ゆかりの人 - 廣池千九郎WEBSITE
http://www.hiroike-chikuro.jp/yukari_hito/02f.htm
西園寺公望
〔近代日本人の肖像 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/84.html