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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 明治5年壬申2月20日[西暦:1872年3月28日] (32歳) ウィーン万国博覧会の御用掛に任命される 【『渋沢栄一伝記資料』第3巻掲載】

澳国博覧会御用掛を仰付けられ、養蚕書を編纂す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 1編 在郷及ビ仕官時代 天保十一年−明治六年 / 2部 亡命及ビ仕官時代 / 4章 民部大蔵両省仕官時代 【第3巻 p.311-321】
・『渋沢栄一伝記資料』第3巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/03.html

オーストリアからウィーン万国博覧会への出品勧誘を受けた日本政府は、明治4年大隈重信(おおくま・しげのぶ、1838-1922)、井上馨(いのうえ・かおる、1836-1915)、寺島宗則(てらしま・むねのり、1832-1893)を博覧会御用掛とし、明治5年1月に博覧会事務局を設置しました。翌2月、御用掛を辞した井上馨に代わり佐野常民(さの・つねたみ、1823-1902)が就任、副総裁となりました(『渋沢栄一伝記資料』第3巻p.319)。
渋沢栄一が博覧会御用掛に任命されたのは明治5年2月20日のことでした。栄一は佐野宛の明治5年9月7日付の書簡で「多忙を極めているので会合には出席できないが、養蚕書編纂は引き受けたい」と述べています(『渋沢栄一伝記資料』第3巻p.311-312)。
さらに1873(明治6)年1月17日付の佐野宛書簡で、栄一は「借用していた養蚕関係諸書を返却する」「海外に説明する為だけでなく、正確な情報を明らかにして国内の殖産を補う養蚕書を編纂したいと思った」「不用とは思うが、私の考えた養蚕書の要領を報告する」「日にちも無く、関係諸書だけで編成されることと思うので、諸書への私見を報告する」という趣旨の内容と、諸書への10項目以上にわたる意見を記しています。その書簡に続いて『蚕桑集成』の題名のもと、養蚕に関する記事の概要が14項目にわたり紹介されていますが、『渋沢栄一伝記資料』第3巻p.319の注釈によれば、『蚕桑集成』が刊行されたかどうかは判明していません。

[前略] 今「青渊先生御手沢本」トシテ竜門社ニ所蔵スル「蚕桑集成」(三巻一冊)同艸稿(二巻一冊)「生糸制法略説」(一巻)及「蚕緒」(二巻一冊)ヲ見ルニ、イヅレモ博覧会事務局ノ罫紙ニ記サレタリ。コレ等ハ栄一ノ監督ニ成リシモノナランモ刊行セラレタリヤ否ヤ明カナラズ。
(『渋沢栄一伝記資料』第3巻p.319)

なお、御用掛とは「宮内庁など、官府から命令を受けて用務を取り扱った職」(『広辞苑 - 第四版』(岩波書店、1991)より)のことです。
参考:ウィーン万国博覧会
〔電子展示会 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/site_nippon/vienna/section1/index.html