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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1928(昭和3)年3月5日 (88歳) 聖路加国際病院評議員会開催 【『渋沢栄一伝記資料』第36巻掲載】

当病院長ルドルフ・ビー・トイスラー是月十六日渡米するにつき、是日、築地明石町同人宅に於て、当病院評議員会を開き、次いで九日丸の内東京銀行倶楽部に、同人並にジョン・ダブリュー・ウッド送別晩餐会開催、栄一それぞれ出席し、十五日更にトイスラーを当病院に訪ふ。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 3節 国際団体及ビ親善事業 / 8款 聖路加国際病院 【第36巻 p.228-238】
・『渋沢栄一伝記資料』第36巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/36.html

聖路加国際病院は、1902年(明治35)に米国の宣教医師ルドルフ・トイスラー(Rudolf Bolling Teusler, 1876-1934)により「聖路加病院」として創立されました。その後国際病院への拡張を計画、1914(大正3)年7月に国際病院設立計画評議員会が設立され、1917(大正6)年に聖路加国際病院と改称しました。
国際病院については『渋沢栄一伝記資料』第36巻p.166に「在留外人や観光団に対し之れに適する病院として治療するのみならず、博くは我が国の有する著名の国手[こくしゅ:名医]仲介者となり、更に優秀なる我医術を洽く海外に向つて紹介せんとする」ことを目的とした病院として紹介されています。
渋沢栄一は1914(大正3)年7月より聖路加国際病院評議員副会長、会計監督に就任、1919(大正8)年から没年に至るまでは評議員長、委員長を務め(『渋沢栄一伝記資料』第36巻p.167)、1923(大正12)年の関東大震災や、1925(大正14)年の火災で病院が被害を受けた際には、支援の手を差し伸べています。
1928(昭和3)年3月5日、病院の事業拡張に際し、米国の支援者に寄付金を募るため、渡米を予定していたトイスラーの家で評議員会が開催されました。
渋沢栄一伝記資料』第36巻p.168には、この日の評議員会で栄一が語った内容が、当時の聖路加国際病院副委員長久保徳太郎(1874-1941。トイスラー亡き後、2代目院長に就任)による談話として次のように紹介されています。

[前略] 子爵はトイスラーさんの帰国の際『国際病院の存在に依つて、恩恵を蒙つて居るのは主として日本人である。それだのに其復興費全部を合衆国に求める事は誠に相済まぬ。貴下が合衆国に於て寄附金を集めるにしても「日本では何の尽力もしない」と云ふ感を合衆国の人々に与へては具合が悪いだらう。依つて其一助として合衆国から輸入する病院の建築材料に対して、関税を免除して貰ふか、それが出来ないならばそれを補ふべき方法を講じるから、其点は安心して帰国なさい』と申されました。トイスラーさんは三百五十万ドルの寄附金額を得る積りで帰国されました。渋沢子爵は此約束履行の為め、自身で出来ない時は阪谷男爵に依頼されて、大蔵省其他の当局に奔走下されて居ます。[中略]
渋沢子爵は大隈侯薨去後、評議員会長に就任されて種々御指導下されて居ます。私等が常に感じて居る事は、子爵は単に職責を竭されるのみでない、誠に親切であります。トイスラーさんは大変子爵を信頼し且つ慕つて細かい事まで子爵の御助言を伺ひに出られます。[後略]
(『[渋沢栄一伝記資料』第36巻p.168掲載、雨夜譚会編「青淵先生関係事業調」(1928年7月9日付)より)

ちなみに、この時トイスラーとともに送別晩餐会に招待されたジョン・W・ウッドは聖路加国際病院米国評議員で(第36巻p.246)、『渋沢栄一伝記資料』第35巻p.62には「日米関係委員会往復書類(二)」からの転載として「米国聖公会外国伝導主任ニシテ本邦ノ教育及社会事業ニ尽瘁セラレツヽアル」人物と紹介されています。
参考:創設と理念
聖路加国際病院
http://www.luke.or.jp/aboutluke/rinen.html
聖路加国際病院100年史編集委員会編『聖路加国際病院100年史』(聖路加国際病院, 2002.10)
NDL-OPAC - 国立国会図書館
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000003614608/jpn