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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1920(大正9)年3月17日 (80歳) 日米関係委員協議会開催 【『渋沢栄一伝記資料』第33巻掲載】

昨十六日、アメリカ合衆国サン・フランシスコ米日関係委員会委員ウォレス・エム・アレグザンダー一行来朝し、是日より当委員会と共に、東京銀行倶楽部に日米関係委員協議会を開き、アメリカ合衆国カリフォルニア州に於ける排日問題対策並に両国親善増進に関して協議し、二十四日に至る。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 2節 米国加州日本移民排斥問題 / 3款 日米関係委員会 【第33巻 p.501】
・『渋沢栄一伝記資料』第33巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/33.html

「ヤア、又来ました、相変らず宜しく」米国実業団男女二十二名の珍客を乗せて、東洋汽船サイベリヤ丸が十六日午前六時半吹き荒るゝ怒濤の中を横浜港外に着いた時[、]逸早く団長アレキサンダー氏は斯う叫んだ、[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第35巻p.269-270掲載、『中外商業新報』第12206号(1920.03.17)より)

1920(大正9)年3月16日に来日したウォレス・M・アレキサンダー(Wallace McKinney Alexander, 1869-1939。サンフランシスコ日米関係委員会会長)ほか日米関係委員会メンバーは、翌17日から一週間にわたり、日本の日米関係委員会とともに協議会を開催しました。当時、米国には根強い排日問題があり、日米間には緊張関係が続いていました。渋沢栄一が常務委員を務める日米関係委員会でも、1916(大正5)年の発足以来、両国関係の改善と親善のための活動が続けられていました。
3月17日には協議会だけでなく午餐会も開催され、渋沢栄一はその挨拶の中で、この協議会が前年に来日したアレキサンダーとリンチの提案により実現したものであり、相互の委員は「胸襟を披いて両者の親善を図ることを協議いたす」積りであると述べています。
また、主賓のアレキサンダーは午餐会の演説で、今回の来日理由について、次のように述べています。

[前略] 吾々は両国民の間に蟠つて居ります誤解が此両国に害をすると云ふことを大いに心配するのであります、能く其ことに付て御協議も致したいと思つて参つたのであります、若し独逸があの様に我儘でなくして、賢しく自分の国と他の国と考へて居ることを共に研究する為めに委員でも出して交渉したならば、かの欧洲大戦乱も起らなかつたではないかと自分は想像して居る次第であります、 今や吾々は此新紀、新時代に当りまして、いろいろの問題に付て頭を悩まして居る次第であります、例へば吾々の国でも過激思想と云ひ、無政府主義と云ひ、随分宣伝などもありますが、是は固より亜米利加のみならず日本も共に講究して此問題に付て如何にするかと云ふことに付て考へなければならぬと思ふのであります、それでありますからして私共両国共に此了解と云ふものを得るのが、両国の間に最も必要なことでありますから、今回吾々も此両国の了解を得る為めにやつて参つた次第なのであります、既に今朝来の会議に於て其の一端を啓きましたが、今後幾多の問題に付て腹蔵なく協議もしたいと思ふのであります、[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第35巻p.275掲載、『東京商業会議所報』第24号(1920.04)「アレキサンダー氏一行招待会演説速記」より)

渋沢栄一伝記資料』第35巻p.267-281には、一行の滞在日程、協議内容、滞在中の諸費用などが各種資料からの転載として紹介されています。
参考:渋沢栄一が関与した主な日米親善の活動(*)、および当時の米国における主な日米問題

  出典:五百旗頭真編『日米関係史』 (有斐閣, 2008.03) 巻末年表