情報資源センター・ブログ

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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1928(昭和3)年4月20日 (88歳) 渋沢栄一、日本女子大学校創立25年記念で祝辞と成瀬仁蔵への追懐文を寄せる 【『渋沢栄一伝記資料』第44巻掲載】

是日、当校創立第二十五年記念式並に綜合大学予科高等学部入学式、及び大典記念女性文化展覧会開会式挙行せらる。皇后陛下行啓あり、栄一、参列して祝辞を述ぶ。
尚是日桜楓会及び当校第二十五回生の計画による「成瀬先生伝」「成瀬先生追懐録」発刊せらる。栄一右に追懐文を寄す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 5章 教育 / 2節 女子教育[承前] / 1款 日本女子大学 【第44巻 p.691-698】
・『渋沢栄一伝記資料』第44巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/44.html

渋沢栄一日本女子大学校をその創立から支援し、同校の会計監督を務めています。
創立25周年に際して発行された『成瀬先生追懐録』(桜楓会出版部, 1928.04)の中で、成瀬仁蔵(なるせ・じんぞう、1858-1919。日本女子大学創始者)が女子教育に果たした役割について、栄一は次のように語っています。

 成瀬君に就て語るには、先づその時代を一言云つて置かぬと成瀬君の苦心の点、殊に成瀬君がどれだけ人と異つた卓見を持つてゐたかゞ解らないだらうと思ひます。成瀬君が女子大学創立のことを頻りに世人に訴へた明治卅二・三年の頃は女子高等教育どころではなく、第一女子に教育を受けさせる事を云ふ人すらが暁天の星の如くに稀だつたのであります。[中略]
 成瀬君の説は皆さんも御存じの通り、女子を国民として人として教育すると云ふ説であります。これが従来の頭で考へると大辺な違ひでありました、がよくよく考へて見ると成程と自分も合点が行き、孔子も或はこゝ迄は考へ及ばなかつたのかなと段々に考が成瀬君の方へ牽かれて行きました [中略]
 私は大正八年の一月廿九日の同君の告別演説の時を今も目の前に見るやうな心地がします。先生が日本に於ける女子の教育に就て、あの熱誠否あの生命を以て後事を依嘱された事を思ふと涙無しにはゐられません。日本に於ける女子の教育に就ては、[中略] 考のあつた人が全くないのではなかつたと思ひます。学者政治家の中には早くからそこに目をつけてゐた人、考へ及んだ人があるにはありました、が併し之を実現した人は成瀬君を擱いて他に誰があるでありませうか。
[中略] 成瀬君の至誠を持つたその卓見は、前にも云つたやうに当時は寧ろ突飛と云はれる程でありましたが、時代に関らず場合に依らず、徹頭徹尾女子の教育に就て主張し、実行して来たと云ふ事が今日の女子大学ある所以であつて、今で云へばあの突飛と思はれた同君の特色のお蔭で、今日の日本の女子教育があると云つても過言ではなからうと思ひます。[後略]」
(『渋沢栄一伝記資料』第第44巻p.695-697)