情報資源センター・ブログ

情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 1915(大正4)年6月1日 (75歳) 渋沢栄一、友愛会主催全国労働大会で演説 【『渋沢栄一伝記資料』第31巻掲載】

是より先、アメリカ合衆国カリフォルニア州に排日問題起るや、シドニー・エル・ギューリック等の請により、米国労働大会へ代表を派遣せんが為め、栄一、安部磯雄添田寿一と謀り、当会会長鈴木文治をして列席せしむべく尽力す。是日当会主催全国労働大会に出席し送別演説をなす。爾後当会並に鈴木文治に対し絶えず激励援助を与ふ。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 2章 労資協調及ビ融和事業 / 1節 労資協調 / 1款 友愛会 【第31巻 p.420-436】
・『渋沢栄一伝記資料』第31巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/31.html

1915(大正4)年6月1日、友愛会主催の全国労働大会が神田の青年会館で開催され、渡米を数日後に控えた鈴木文治(すずき・ぶんじ、1885-1946)らに対し、渋沢栄一添田寿一(そえだ・じゅいち、1864-1929)等による送別の演説が行われました。(演説内容は「筆記ヲ欠ク」とされており不詳)
この年の10月には渋沢栄一もまた渡米、11月にカリフォルニアで開催された労働同盟大会に鈴木とともに出席しています。『渋沢栄一伝記資料』第33巻にはその時の様子が栄一の談話として次のように紹介されています。

[前略] 桑港滞在四日の間には、万国労働大会に友愛会長鈴木文治氏を伴ふて出席したり、尤も最初は鈴木氏を日本代表者として認めざりしが、同氏の演説報告及び予が斡旋の結果、遂に同会は氏を正式の会員に推し、茲に
 △日米労働者の握手 成立する事となれるは喜ばし [後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第33巻p.74掲載、『東京朝日新聞』第10592号(1916.01.05)「渋沢男爵帰朝」より)

鈴木文治が渡米することとなった背景には、当時日米間の深刻な問題であったカリフォルニアでの排日問題がありました。鈴木文治は労働同盟大会出席の経緯について、1930(昭和5)年に次のように語っています。

日米関係委員会雑綴(二)         (渋沢子爵家所蔵)
    日米関係に於ける労働の要素 (鈴木文治君)
○上略
 元来米国に於ける所謂排日問題なるものは、主として米国の労働団体より其叫び声が挙げられて居ると云ふことは、明瞭な事実であります。従て単に日米両国の識者が、此問題の解決の為に腐心するのみを以てしては足れりとせず、どうしても日米両国の労働階級相互の間の理解と親善の情を増すことが、真の解決のために必要不可欠と云ふことは、既に識者の間の一致したる観察であつたのであります。顧みれば今を去ること十五年前 [1915年]、多年日本に居られて日本の宗教及び教育の方面に多大の貢献をせられ、帰米後宗教方面に働いて居られるシドニー・ギューリック博士が此考を以て我国に来朝せられ、渋沢子爵を初め各方面の有力者に此事を語られた結果として、渋沢子爵・阪谷男爵故添田博士等の御配慮を蒙つて、私が一種の労働使節といつたやうな関係に於て米国に参りましたのは千九百十五年のことでありました。当時私は米国加州の労働同盟の大会並に米国全体の労働同盟の大会等に出席した外、大小種々の米国労働組合の会合に出席して、及ばずながら日本の労働事情・労働運動等のことに付て出来る限りの説明を試み、米国労働者の間に蟠つて居つた幾多の誤解偏見等を除去することに努めたのであります。爾来今日に至ります。[中略]
    ○右ハ昭和五年十一月十日丸ノ内東京銀行倶楽部ニ於ケル帰朝歓迎会ノ演説速記ナルベシ。
(『渋沢栄一伝記資料』第31巻p.423)

参考:友愛労働歴史館について
友愛労働歴史館HP〕
http://www.yuairodorekishikan.jp/32.html