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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1909(明治42)年6月8日(火) (69歳) 渋沢栄一、徳川慶喜の口述筆記会「昔夢会」に出席 【『渋沢栄一伝記資料』第47巻掲載】

是日、渋沢事務所に於て、第四回昔夢会開かれ、徳川慶喜及び栄一出席す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 6章 学術及ビ其他ノ文化事業 / 4節 編纂事業 / 1款 徳川慶喜公伝編纂 【第47巻 p.497-505】
・『渋沢栄一伝記資料』第47巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/47.html

1909(明治42)年6月8日、第4回「昔夢会」が兜町の渋沢事務所で開催されました。渋沢栄一は、旧主徳川慶喜伝記編纂を計画、1907(明治40)年から慶喜没年の1913(大正2)年まで、慶喜の談話を記録する「昔夢会」を継続して開催しています。
この2日前の6月6日、栄一は第一銀行及び東京貯蓄銀行を除く78の企業・団体に対して辞意を表明し、実業界との関係を整理しています。また、2日後の6月10日に発行された『国民新聞』紙上には、栄一の談話として「これまで多忙であったため徳川慶喜公の伝記編纂に対して十分意見を述べたり、原稿を読むことができなかったが、今後は比較的暇ができるので、この編纂に専心従事したい」との記事が掲載されています。

     ○旧主徳川慶喜公の詳伝
  国民新聞は「渋沢男 [渋沢男爵] の大著述」と題し、六月十二日の紙上に左の如き記事を掲載せり。
渋沢男は元一ツ橋家に仕へ徳川慶喜公の用ふる処となりて以来今日まで約五十余年間、公と密接の関係を持続し来りたるが、男 [男爵=渋沢栄一] は、一は旧主慶喜公に対する謝恩の為め、一は公の幕末に於ける公明正大なる心事と、克く順逆の大勢を観て王政復古に尽されたる功績の甚だ大なることを世人に紹介せんとて、去る二十七年以来私費数万円を投じて公の詳伝を起草中の由なるが、之につき十日兜町の事務所に男を訪て其意見を尋ねたるに、男は斯ることを世に公にするは慶喜公の喜ばざる処なれば深く秘し置きたるも、事茲に至れる以上は事実を語るべし、最初此の事を思ひ附くと同時に、旧幕臣でもあり旁々に筆が立つ処より故福地源一郎氏に依托して著手せしも編述半にも至らずして福地氏は故人となり、且つ氏の編纂方に少し意見の違ふ所ありたれば、其方針を全々一変して、再び之を新に編述することとなしたり、夫れと同時に、之れまで三上博士を編輯顧問に、萩野博士を編輯主任に、小林文学士を執筆担任者に、その下に二名の文学士を招聘し、又紀料蒐集方を江間政発氏に托して此処の二階で編輯せしが、何分自分は今日迄多忙な為め十分なる意見を述べ又は原稿を通読して注意を与ふる暇なきが為め、荏苒今日に至れる次第なるが、今後は比較的暇を得て専心之に従事せんと思へり、冊数は二十になるか三十になるか未定なれど大半以上に進捗したれば、明年中には脱稿し江湖に批評を乞ふことも出来んか。
(『渋沢栄一伝記資料』第47巻p.502、『竜門雑誌』第254号(1909.07)p.61)