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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 慶応3年丁卯11月9日[西暦:1867年12月4日] (27歳) 渋沢栄一、徳川昭武の随員としてイギリスを訪れる 【『渋沢栄一伝記資料』第1巻掲載】

是より先、徳川昭武一行十月二十四日より巴里に留まること十一日、十一月五日昭武に随ひ巴里を発して英国に向ふ。同七日倫敦に着し、八日議院を観るに陪す。是日昭武、英国女王ヴイクトリヤにウインゾル離宮に謁す。尋いで十日よりタイムス新聞社・図書館・大砲製造所機械製造所・閲兵式・水晶宮・英蘭銀行・軍艦製造所等を観るに陪す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 1編 在郷及ビ仕官時代 天保十一年-明治六年 / 2部 亡命及ビ仕官時代 / 2章 幕府仕官時代 【第1巻 p.579-596】

渋沢栄一は1867(慶応3)年に、パリ万博でフランスを訪問した徳川昭武(とくがわ・あきたけ、1853-1910)の随員として同行、1年あまりをヨーロッパで過ごし、その間にイギリスにも訪れています。
渋沢栄一伝記資料』第1巻には「英国御巡行日誌」などからの再録として、徳川昭武の訪問先、それぞれの同行者、また簡単な解説によりイギリスでの一行の足跡が具体的に紹介されています。(引用文中12月の日付は西暦)

渋沢栄一 英国御巡行日誌
[前略]
 十一月九日 曇 水              十二月四日
此日国王御逢之積ニ付、午後御支度、外国事務執政ロードスタンレン及メジヨールヱドワル御案内、隼人正・石見守・俊太郎・伊右衛門御雇両人シーボルト御供、第二時客車御発し、本地の汽車場より汽車御乗組、第三時別宮御着、汽車場江礼車御乗組、夫より御逢之式有之 此日之式は別に記(載カ)したれはこゝに略す 御逢済夜六時御帰館、夜八時御招待ニ付本地の劇場御越、隼人正・石見守・俊太郎・伊右衛門・凌雲御雇両人御供、夜十一時御帰館、箕作貞一郎・渋沢篤太夫本地バンク罷越、御用意金為替請取、川路太郎同道いたす
第一等ミニストルロードテルジイ、第二等エジヨト罷出て御機嫌を伺ふ
[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.589)

なお、栄一は後年「特に記憶に残っていること」として、欧州各都市の交通や賓客歓迎の習慣について、以下のように語っています。

竜門雑誌 第四二〇号・第三一頁 大正一二年 〔五月二五日〕
[前略] 当時私も偶然渡欧して仏・英・伊其他の交通状態を見て大に感じ、我日本も斯くありたいと願つたのである。 [中略] これは経済上の利益である。又社会上の利益である事を感じた。倫敦の旅館の窓から道路を眺むると当時は未だ自動車はない、馬車、荷車、或は一種の鉄道馬車などが交通機関であつてその有様を見るに実に互譲の美徳が良く行はれ居る。立派な車が先へ行くではない、良い車なら先へ行くといふのはこれは先づ誰でも考へるが、さうではない、先きを急ぐ必要なものが先へ行くといふことになつてゐる。それは人々の申合せではないが、誠に具合よく行はれて居る。後で聞けば、自然にさういふ制度になつてゐるといふことで、今も尚敬服して居る。[後略]
   ○右ハ「半世紀前の倫敦市街」ト題スル栄一ノ談話ノ一節ナリ
竜門雑誌 第五〇九号・第三一頁 〔昭和六年二月〕

○上略 又私が曾て徳川民部公子に随つて仏国へ赴き、且つ西洋の各地を訪問した時、特に記憶に残つて居るのは、ドヴア海峡を渡つたとき、ドヴアの市民の総代が、日本の貴人を迎へると云ふので逸早く町の入口で歓迎文を読んだことであります。何んでも西洋の此の風習は、町の入口で、そのは入つて来る人に敬意を表し、町を自由に視察するための鍵を与へると云ふやうな意味で、尊い人に礼儀を尽すものださうでありますが、地方団体として有名な人を接待するのによい仕方である、結構な風習であると感じて居ましたから、当時グラント将軍を歓迎するに就て之を行ひたいと云ふで、益田、福地等の人々に諮つたところ同意を得ましたので、先づ新橋駅へ着いた時、此の方法を採つて歓迎文を読んだのであります。○下略
   ○右ハ「グラント将軍歓迎の追憶」ナル栄一ノ談話ノ一節ナリ。
(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.595-596)