是日、日本貿易協会主催渡米実業団帰朝歓迎会、同協会に開かれ、副会頭池田謙三の歓迎の辞に対し栄一謝辞を述ぶ。同じく是日東京商業会議所主催同所選出渡米実業団員帰朝歓迎会、日本橋倶楽部に催さる。次いで二十日東京銀行集会所等主催京浜間在住渡米実業団員等歓迎会、二十一日鰻会主催歓迎会、二十四日米友協会主催歓迎会、二十五日正午基督教青年会主催歓迎会、同夜経済学協会主催歓迎会、明治四十三年一月四日温知会主催歓迎会、二十二日東京高等商業学校同窓会主催歓迎会催さる。
出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 1節 外遊 / 1款 渡米実業団 【第32巻 p.415-423】
1909(明治42)年12月19日、日本貿易協会は渋沢栄一ら渡米実業団一行の帰朝歓迎会を開催しました。栄一はその席上、「日本は輸出にばかり力を入れており米国からの輸入が少ない」と米国各地で指摘され、それに対し米国官民有力者を招いて「不均衡ながらも米国民がその貿易により得ている利益も多い」と私見を述べたエピソードを披露、歓迎会出席者に向けて日本でも貿易発展を謀る努力をして欲しいと語っています。
[前略] 貿易統計表によれば米国に対する輸出一億余万円に対し、同国よりの輸入は八千万円に過ぎざれば、一見貿易は不平均なるに似たり、然れども其物品を調査するに米国の買ふ所のものは多くは日本の粗成品にして、之れに加工し以て自国民の用に供するものにて、米国の利する所甚だ多し、これ日本より言へば米国より買ふて貰ふに非ずして、寧ろ売つて貰ふとも云ふべく、然るに米国民が貿易の不平均を云々するは一応尤もなれども、同時に其利甚だ尠からざることを自覚せざる可らず、徒に既往の事を難ぜんよりは、将来の貿易に付て相互に胸襟を披きて、日米国交の親善を図ると同時に貿易の発展を計らざる可らず [後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.416掲載、『竜門雑誌』第260号(1910.10)p.41-46「青渊先生歓迎会彙報 東京商業会議所の歓迎会(十九日)」より)
渋沢栄一は様々な団体が主催する歓迎会に招待され、それぞれに演説を行っています。この後翌年まで続いた諸団体による歓迎会の概要や栄一が演説で語った内容は、『渋沢栄一伝記資料』の以下の箇所で紹介されています。
- 1909(明治42)年
12月19日/日本貿易協会主催 (第32巻p.416)
12月19日/東京商業会議所主催東京会議所選出団員帰朝歓迎会 (第32巻p.416-417)
12月20日/東京銀行集会所等主催京浜間在住団員等歓迎会 (第32巻p.417-418、第51巻p.131)
12月21日/鰻会主催歓迎会 (第32巻p.418)
12月24日/米友協会主催歓迎 (第32巻p.418)
12月25日/基督教青年会主催歓迎 (第32巻p.418-419)
12月25日/経済学協会主催歓迎会 (第32巻p.419、第46巻p.318) - 1910(明治43)年
1月4日/温知会主催歓迎会 (第32巻p.419-421)
1月22日/東京高等商業学校職員並同窓会主催帰朝歓迎晩餐会 (第32巻p.421-423、第44巻p.141) など
*開催日/主催者等 (『渋沢栄一伝記資料』掲載巻・ページ)