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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1925(大正14)年3月1日(日) (85歳) 渋沢栄一、日仏会館、日仏協会幹部合同協議会に出席 【『渋沢栄一伝記資料』第36巻掲載】

是日、当会館幹部及び日仏協会幹部合同協議会、丸の内日本工業倶楽部に開かる。栄一出席して両者の意志疎通を計る。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 3節 国際団体及ビ親善事業 / 12款 財団法人日仏会館 【第36巻 p.296-297】

日仏協会は「一 日本人およびフランス人間の交際を親密ならしむこと」「二 仏語学の教授並に仏語を以てする学科のみ(マヽ)教授を奨励し、および之を容易ならしむること」(『渋沢栄一伝記資料』第36巻p.259)を目的に1909(明治42)年に、日仏会館は「日仏文化の協同及ひ其発達を図る」(同p.272)ことを目的に1924(大正13)年に設立された団体です。
1925(大正14)年3月1日、日仏協会と日仏会館のそれぞれの幹部による合同協議会が開催されました。日仏協会には終身会員として、日仏会館にも理事長としてそれぞれ関与していた渋沢栄一は協議会に出席、二団体協調についての協議に参加しています。
日仏交流の拠点となった会館設立の経緯、また栄一の関わりが『渋沢栄一伝記資料』第36巻中に、以下のように紹介されています。

青渊先生関係事業調 雨夜譚会編 昭和三年二月二十九日
                   (渋沢子爵家所蔵)
    日仏会館
○上略
一、創立迄の沿革  大正八年夏、リオン大学総長ポール・ジユーバン(Paul Joubin)氏、同大学教官モーリス・クーラン(Maurice Courant)氏を伴ひ、大学使節として来朝し、諸大学を歴訪。一日青渊先生は両氏を兜町の自邸に招請し、犬養毅古市公威、富井政章、穂積陳重阪谷芳郎諸氏の来会を乞ひ、午餐を共にせられた所、ジユバン氏より日仏文化交換の機関を設けては如何と提議した。
  此事は頗る時宜に適するものと思惟せらるゝまゝ、互に実行を考慮する事となつた。
  ジユバン氏帰仏して、日仏文化交換機関設置に付き仏国政府の諒解を求め、関係方面人士と種々計画す、其翌年大正九年、恰もリオン在勤日本領事木島孝蔵氏帰国する事となつた為め、ジユバン氏は木島氏に託して右計画の事を青渊先生等に伝へると共に、日本に於ける計画進捗を催促する所があつた ○下略
 ○前掲「集会日時通知表」ニヨレバ午餐会ノ開カレタルハ飛鳥山邸ナリ。右ニ兜町ノ自邸トアルハ誤ナルベシ。
(『渋沢栄一伝記資料』第36巻p.266-267)

また、会館設立構想成立前の1921(大正10)年1月、栄一は日仏交流について『銀行通信録』に寄せた文中で次のように語っています。

銀行通信録  第七一巻第四二三号・第九―二五頁 大正一〇年一月
    ○新年の感想         子爵渋沢栄一
[中略] 私の希望は其間には外交もありませうが貿易に就ても支那・亜米利加ばかりでなく欧羅巴各方面に就て、もう少し力を入れたいやうに思ひます
仏蘭西も、大に日本との接触を能くしたいと云ふことを考へて居られる。既に昨年「リオン」大学の総長ジュバン氏と云ふ人が日本へ来られて兎角日仏間の交際が少いから商売上の取引も殆ど無いやうな有様である。殊に日本に仏蘭西の語学をする人が些ともない。些ともないと極言はしかねるけれども、甚だ少ない。もう少し何とか学生其他に仏語を話す人があるやうにしたい。如何にして此接触を造る途を講じたら宜しいかと、頻に苦心して居りました。未だ名案は成立ちませぬけれども、蓋し是も欧羅巴の有力な国で且つ古い交誼のある国民である。殊に私は維新前に、一年許り仏蘭西に居たから、自ら懐旧の情が動いて何等かの方法を講じたいと、頻に心配をして居ります。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第50巻p.635)