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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1920(大正9)年4月12日(月) (80歳) 渋沢栄一、協調会主催社会政策講習所開所式で告辞  【『渋沢栄一伝記資料』第31巻掲載】

是日当会主催社会政策講習所開所式行はる。栄一之に出席して告辞を述ぶ。次いで同年十二月の第二回講習会には科外講義として「社会道徳ニ就テ」と題する講演をなす。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 2章 労資協調及ビ融和事業 / 1節 労資協調 / 2款 財団法人協調会 【第31巻 p.507-511】

竜門雑誌  第三八四号・第五七頁 大正九年五月
○社会政策講習所発会式 財団法人協調会にては、同会事業の一として今後社会政策を研究し、又社会的施設の実務に当らんとする者の教養に遺憾なからしめんが為め、今般社会政策講習所を設立して其目的に資する事とし、四月十二日午前神田錦町三丁目東京工科学校内に於て其発会式を挙行し、副会長たる青渊先生も臨席の上一場の挨拶を述べられたるが、右講習期間は五ケ月とし、毎年三月より七月迄、及び九月より翌年一月に至る二回開講の筈 [後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第31巻p.507掲載)

1920(大正9)年4月12日、渋沢栄一は社会政策講習所開所式に出席し挨拶を述べています。社会政策講習所とは、「社会の各方面から社会政策に関する特殊の智能を有する有用の材を要求すること益々急なるを見て」協調会によって設立されました。協調会とは労使協調のために1919(大正8)年に設立された民間団体で、栄一は設立以来、副会長を務めています。
当初、講習は神田区錦町の東京工科学校の中で行われていましたが、1921(大正10)年7月には「芝公園第24号地」に、さらに1923(大正12)年4月には新築なった協調会館内に移って行われ、名称も社会政策講習所開所から社会政策学院へと改称されました。
渋沢栄一伝記資料』第31巻p.507-511にはこれらの概略のほか、講習所開講当時の科目および講師、また「社会政策学院規定」などが協調会編『協調会事業一班』(協調会, 1923.06)からの再録として紹介されています。
また、同巻p.517-519には栄一が労働問題と協調会設立の経緯について語った内容が、『社会政策時報』創刊号(協調会, 1920.09)p.1-5からの再録として次のように紹介されています。

労働問題解決の根本義 (男爵 渋沢栄一
[前略]
 労働問題に対する私の意見は終始不変である。惟ふに社会政策の要義は王道履行の一語に尽きる。[中略] 地位権力の有無、貧富・賢不肖の差別に拘はらず、均しく是れ人間として互に敬愛忠恕の心を以て相接すべきであつて、此道を隅々まで行届かせるやうに施設するのが即ち王道であり、取りも直さず社会政策である。斯ういふ意味にて一場の演説をしたことがあつたが、此考は今猶ほ毫も変らない。
[中略]
 一体労働問題を今日のやうに急速に発現させたに就ては謂はゞ私にも大に其責任があるので、之が解決には人一倍心力を尽さねばならないやうに感ずるのである。私は明治の初年に於て、産業の発達には金融機関の整備を図るのが何よりも急務だといふ見地から身を銀行界に投じたが、さて実際に銀行を経営して見ると、[中略] 銀行業は全く他の発展と相影響するものである、各種事業が勃興しなければ銀行は用が無い、銀行の繁昌には工業の進歩が何よりも肝腎だといふことを痛切に感じた。元来産業の発達を資くる為の銀行ではあるが、銀行の為にも産業の隆昌が必要である。斯様に相聯絡した理由から、私は随分産業の発達、殊に工業の進歩に尽瘁したが、詰り工業は従前の家内式では到底欧米に伍して行く事ができない、糸車で紡績機械に対抗する訳に行く筈がないといふので、機械工業の促進に全力を注がねばならぬ事になつた。斯様にして新式の工業はズンズン勃興して来たが、其れに伴れて労力の需要が激増したのは当然である。そこで地方から農家の二男三男が盛んに飛び出して来て都市に集まる、丁度保元・平治以降に兵農が分れた時のやうな状態で、工業労働者と農民との分界が出来た。謂はば之れが今日の複雑なる労働問題の俑をなしたのである。[中略] 我国の労働問題も其進歩に随つて紛糾錯雑することあるべきは予想するに難くなかつたのである。そこで之を未雨に綢繆せんが為には、第一に資本家の自覚を促さねばならぬと考へた。とかく資本家の陥り易い偏見は、賃金を与へれば主人であり、之を受ければ家来であると言ふやうな封建的の観念である。曾て私が経営して居た銀行業に就ても、当初は此謬見が附纏うて居つた、[中略] ちよつとした店先の買物にしても、とかく買手は、傲然として売手を見下す傾きがある。資本あつての事業、事業あつての労働であると同時に、労働あつての事業、事業あつての資本である。資本と労働との共同活動が即ち産業である。賃金を与へる者貴くば労働を与へる者も同じく貴い。否、其の孰れも与へるのでは無い、資本と労働との持寄りに外ならないのである。更に適切に言へば、資本家と労働者との人格的共働が即ち産業である。労働者の癖に怠けるとか、使用人の癖に反抗するとか、つまり此「癖に」といふのが根本の誤りである。此陋習の打破、即ち資本家の自覚が第一だと私は考へたのである。
 第二は労働者の自覚である。此れは資本の作用に就ても同様であるが、労働の根本意義は社会奉仕である。社会の必要とする物資を生産して社会に貢献する、之をなすには資本と労働と協力しなければならぬ、労働者が資本家に対して僻んだ考を持ち、徒らに人を敵視するか又は自己の便益のみを謀つて資本家を敬愛することなければ、即ち社会奉仕に悖るものであつて、其極自ら卑めるものである。此の正当なる思想から十分の節制と訓練とによりて労働組合を組織して、誠実な態度を以て漸次に之を発達せしめて資本家の信用を得、此の機関に依つて資本家との協調を保つて行くやうに努めねばならぬ。私は斯く希望したので、曾て友愛会に対しても其の穏健摯実なる発展を切望して已まなかつた次第であつた。
 [中略] 私は斯様な考を以て資本家・労働者双方の覚醒を促すことに努力を続け、大正五年に事業界を隠退すると共に、今後の生涯の一部を此方面に捧げる積りであつた。
 時恰も床次内務大臣の主唱にて、朝野同憂の諸名士及工業倶楽部の諸君も其相談に与かつて、協調会創立の議が持上つた。資本・労働双方の覚醒を促して切に両者階級闘争の謬見を正し、其間の協同調和を保つて行くには、両者の孰れにも偏せずして公正不偏の立場にある機関を組織して、其の誠実なる活動に俟つのは最も適切な方策である、のみならず天下は資本家と労働者のみの天下では無い、社会構成の中心分子は大多数の公衆である、資本も社会の為に存し、労働も社会の為に存する、社会共同の福祉を離れては資本も労働も其用を成さぬ、此立場からして両者の専恣を戒め、其の当に趨くべきところを指示さねばならぬ、斯ういふ主義を以て本会創立の議が起つたので、私も満腔の同感を禁じ得なかつた。そこで一身を此事業に投じた次第であつて、而して此精神は曩に労働組合を援助した時と寸毫も異ならないのである。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第31巻p.517-519掲載)