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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1908(明治41)年5月17日(日) (68歳) 渋沢栄一、陽明学会の招待会で演説。推挙されて評議員となる 【『渋沢栄一伝記資料』第26巻掲載】

是日陽明学の大家東沢潟の息敬治等、王陽明学会拡張の為め、本郷湯島麟祥院に有力者招待会を行ふ。栄一出席し演説す。同日推されて評議員と為り、又当会の指導経営を委任されて尽力す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 2部 社会公共事業 / 3章 道徳・宗教 / 1節 儒教 / 2款 陽明学会 【第26巻 p.23-27】

斯文六十年史 斯文会編  第三七三頁 昭和四年四月刊
    第五十二章 特殊研究学会
○上略
陽明学会 明治四十一年十一月に、東敬治の創立する所にして、評議員及維持員は、子爵渋沢栄一・奥宮正治の二氏なり。会の事業は、講演・講義・雑誌の発行にして、講義は東京市丸の内仲通十八号館渋沢事務所に於いて、毎月二回之を行ひ、雑誌は始より継続して発行し、昭和三年十一月に至りて、第百九十四号に達せり。最初は月刊なりししも、大正十二年の大震火災後、隔月発行と為せり。
(『渋沢栄一伝記資料』第26巻p.25)

1908(明治41)年5月17日、渋沢栄一王陽明学会の会合に出席して演説を行い、推挙されて評議員となっています。『渋沢栄一伝記資料』第26巻p.26-27には、この日の様子や栄一が陽明学会の運営に関与するようになった経緯について、東沢潟(ひがし・たくしゃ、1832-1891。儒者)の子息で王陽明学会(後に陽明学会)主幹を務めた東敬治(1860-1935)の談として次のように紹介されています。

青渊先生関係事業調 雨夜譚会編    (渋沢子爵家所蔵)
  陽明学会(昭和三年二月二十五日調べ)
    陽明学雑誌と青渊先生
                      東敬治氏談
[前略] 私が渋沢子爵を知る様になつたのは、明治三十五・六年に上京して間もなくの事だつた。島田蕃根(註、[中略] 詳細は大日本人名辞書九九七頁参照)の紹介によつて子爵と会つたのが其初まりである。私は元来長州の者で私の亡父東崇一ソーイチ(註 沢潟と号す。[中略] 詳細は大日本人名辞書一七八六頁参照)が島田蕃根と交つて居つた関係から、私が「王学雑誌」を出す事となつた時、此人に話したら『それには渋沢さんを会員に加へた方が具合が宜からう』と云つて紹介して呉れた。それで子爵に頼んで会員に成つて貰ひ、雑誌を送つて居つたと云ふ訳である。所がどうしても雑誌の維持経営が困難で、此儘では継続出来なくなつた。そこで到頭子爵の後援に寄る様な事になつたが、其経路を話しすると斯うである。私の仕事に対しては東久世通禧伯爵(明治御一新に際して七卿落の一人である)が同情を寄せて下さつて居たので、先づ此東久世伯爵に発起人に成つて貰つて、有力な実業家其他の人々の招待会を催し、其席上で雑誌拡張の計画を述べ後援の依頼をする事を企てた。併し滅多な場所でしても出席して呉れないから、変つた所を選ぶと云ふ事で、湯島の麟祥院にした。それも院の春日局の居間を特に頼んで融通して貰つた。此の春日局の居間とは、嘗て春日局が自分の部屋として居たとかで、其後誰にも会席として貸した事がなかつたそうだ。私の会を催したのが何年何月であつたかはつきり覚えぬが、大凡明治四十一・二年だつたと思ふ。其日百数十名ばかり案内した中で八十余名出席した。此出席者中から委員を選んで尽力を仰ぐ事とした。渋沢子爵にも委員になつて貰つた。前にも云つた通り其以前に於ける子爵との関係は通り一遍の会員に過ぎなかつたもので私は子爵の事は気に付かなかつた。それでは委員にはどう云ふ訳で成つて貰ふ様になつたかと云へば、大倉喜八郎さんが私に言つて呉れた。そして大倉喜八郎さんを雑誌の拡張委員に頼んで呉れたのは東久世伯爵である。私が東久世さんから紹介されて大倉さんに頼みに行つたら、大倉さんが『援助はしやう。併しそれは渋沢さんにも頼んだ方がよからう。自分よりも渋沢さんの方が人気があるから拡張も都合よく行くだらう』と教へて呉れたので、私が『それでは渋沢さんにお頼みしますが、大倉さんから薦められてお願に来たと明からさまに云つても差支ありませんか』と断つて、早速渋沢子爵を訪れて頼んだ。それから委員会を何度も開いて、其都度子爵に御出席して貰ひ偏に子爵の尽力を仰ぐ事を頻りに子爵に頼んだ。併し子爵は此明善学舎の趣旨、成り立ちを深く御存じがなかつた為めか、他の委員同等の援助なら引受けやうけれども、責任の大半を持込れるのは困ると云つた様な御考であつたので、私等から強いて頼むと席を立つて『今日は外に用事があるから……』と帰らうとなさる、そこで私が『雑誌が毎号お送りしてある筈で御座いますが、それで趣旨もお判りの事だらうと思ひます』と追ひかけて云ふと『いや、雑誌は毎号確に頂いて居る誠に難有ふ。御礼を言ふ』と及腰に返答なさる。到頭最後に私がそれでは貴方に万事おまかせして、貴方の御考通りにやる事に致しますから』と突込んだ。すると子爵も『そう迄言はれると致方ない』と此上拒まれなかつた。之れが謂はゞ吾陽明学雑誌の第二回目の拡張である。同時に雑誌の名を「陽明学」と改めたのである、此時から陽明学会の経営が子爵の御尽力に頼る様になつた。それから余程経つて大正十二年の大震災前になつて、再び経営困難となり、第三回目の拡張を必要として此時も子爵に大いに御尽力を願ひ、子爵初め各方面の人々から約二万円の寄附を仰ぐ事になつたのであるが、生憎震災の為め其半額の一万円も集まることが出来ず、経営が苦しくなつて来た。依つて従来月刊雑誌であつた「陽明学」を隔月に発行する事にして継続して居る次第である。考へて見ると子爵の御世話になる様になつてから長い間であつて、其間度々子爵に金の御心配も懸けた。私が感じて居る事は、子爵は一度幾何の金を寄附しやうと約束なさると、必ずそれ丈はお出しになる。之れは金の事ではあるが、外にこんな人はない様だ。又数回経営困難に陥つて、子爵に雑誌の廃刊を申出た事も屡屡であるが、子爵は何時も『そんな事では駄目だ』と云つて反対なさる。之れは特に私が感じた事である。
渋沢事務所で陽明学の講義をする様になつたのも、子爵の希望であつて、震災前から続けてゐる。毎月二回、第二・第四の土曜日と定めてある。
最後に、陽明学と云ふのは孔子の教を説くに就て朱子学に対抗して起つたものである。朱子学派に在つては孔子の教を解釈するのが非常に狭義である。併し陽明学に於ては印度の仏も容れて拒まず、特に孔子の教を実際に当嵌める事に於ては朱子学が全く閑却した所であるが、之を大に説いた。此点に於ては渋沢子爵の主張と全く一致する所で、子爵が雑誌「陽明学」に尽力なさるのも、此処に基因して居る事と思ふ。序に震災前支那から子爵に宛てゝ、陽明全集が贈られた。此全集は大変善い本であつた。子爵は此全集に返り点・捨仮名・註釈・講義を附けるやうに私に頼みになつた事がある。
(『渋沢栄一伝記資料』第26巻p.26-27)

参考:東敬治書翰(山田準宛て)にみる陽明学会の活動(<特集>王陽明) / 町泉寿郎
〔CiNii Article〕
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007175950