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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1929(昭和4)年6月14日(金) (89歳) 渋沢栄一、楽翁公百年忌で墓前祭、式典等に出席。演説を行う 【『渋沢栄一伝記資料』第49巻掲載】

日栄一、深川区霊巌寺に於ける当会主催楽翁公百年忌墓前祭に臨みて、挨拶をなし、更に丸の内東京商工奨励館に於ける神式祭典に出席、式後、記念講演会に於て演説す。尚、同時に開かれたる展覧会に出品す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 9章 其他ノ公共事業 / 1節 記念事業 / 12款 財団法人楽翁公遺徳顕彰会 【第49巻 p.126-139】

中外商業新報  第一五五六四号 昭和四年六月九日
    白河楽翁公の祭典や遺物展
      百年忌の十四日から
        公の遺徳顕彰会成る
白河藩主にして寛政時代の幕府の大宰相松平楽翁公の墓が、深川霊巌寺にあつて、昨年内務省から史蹟に指定されたが、過る大震災のため甚だしく損傷して居る上に墓域も狭いので、あたかも来る十四日が公の百年忌に相当するところから、右の墓地を改修して祭典を営み、なほ公の遺徳を顕彰すべく徳川家達公を総裁に、渋沢子爵を会長に、平塚知事・堀切市長を副会長として楽翁公遺徳顕彰会を組織した、同会では十四日午前十時から霊巌寺の墓前に、午後一時から丸の内の商工奨励館に祭典を行ひ、引続いて同館で渋沢子爵・三上博士らによつて記念講演会を催すさうである、また十四・五・六の三日間商工奨励館で楽翁公の遺物展覧会を開き、午後五時まで一般の参観に供することとなつてゐる、そこに公開される遺物は公から六代目の当主である松平定晴子爵から、多数出品されるが、[中略] 渋沢子爵も公の自筆に成る「関羽」の極彩色密画と墨絵の二幅(墨絵の方には十一代将軍家斉公が賛を加へてゐる)の珍什をはじめ、日本各地の名水を取寄せそれを用ひてその地の歌を詠んだ「水鏡集」一巻、或は招月庵正徹の草根集から抜萃した「草露集」等公の和歌に対する深き造詣を示すもの、又白河藩の砲術師須藤金八に与へて公の砲術に対する深き知識と識見を示す書簡など出品される [後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第49巻p.137)

白河藩主として藩財政再建、幕府老中首座として寛政の改革を行った楽翁=松平定信(まつだいら・さだのぶ、1758-1829。徳川吉宗の孫)の没後100年にあたる1929(昭和4)年6月14日、午前10時から深川霊巌寺墓前で仏式の墓前祭が、午後1時から丸の内商工奨励館で神式の式典が開催されました。さらに午後2時からは東京商工奨励館で記念講演会が開催されています。
楽翁に深く傾倒する渋沢栄一は、南湖神社建立玉川碑再建、『楽翁公伝』編纂など種々の楽翁顕彰事業に関与、百年忌に際して設立された楽翁公遺徳顕彰会では推されて会長に就任しました。
栄一は自らの楽翁観、また遺徳顕彰会設立の理由について百年忌講演会挨拶の中で次のように語っています。

竜門雑誌  第四八九号・第一―六頁 昭和四年六月
    楽翁公百年祭にて
                      青渊先生
[中略] 私が公を知つたのは明治七年東京府共有金の取締の事を、時の府知事大久保一翁氏から申しつけられてからでありまして、[中略] 然らば此の金は何処から出たかと調べて見ると、之れは楽翁公の経営せられた、例の七分金と称する江戸市中の積立金でありました。公は特に申述べるまでもなく、政治上非常な緊縮方針を執られ、節倹を勧められ、自ら実行した方であります。其処で当時の江戸に於ける各町の費へをも節約せしめることとし、町奉行と相談の上、年々の経費を出来るだけ節して、その一分を給与金に振当て、二分を此の経費を納めた人に割戻し、而して残り七分を積立て利殖したのであります。即ち此の資金は或は貸金とし、又は土地を買入れ、更に穀類をも買持ちして、資金の維持と増殖とを図つた、これが七分金と名づけられたもので、明治維新後総額百五・六十万円が東京府に引継がれて共有金となつて居ました。私は斯様な楽翁公の余徳を知り、公がたゞの政治家でなく、経済的にも社会的にも充分手腕のある方であると覚つたのであります。そして共有金取締を申付けられるより前に、私は養育院の事業を引受けて微力を致すことになつて居りましたが、其の経営上の費用を共有金から支出しました、故に現在の東京市養育院は楽翁公あつたればこそ今日の壮大なる規模を有するに至つたのでありますから、公の命日たる五月の十三日には毎年必ず楽翁公祭を養育院内で開いて居ります、又共有金は此の外に只今の商科大学の前身たる、商法講習所とか、瓦斯会社となつた瓦斯局とか、東京府市庁舎、その他道路・橋梁・墓地等諸設の公共事業に用ひられたのであります。
 然し乍ら、当時は未だ公が変つたお方であると云ふ位の考しか持つて居ませんでしたが、後公が本所の吉祥院に納めて居られた心願書を養育院の関係者から示されまして、その荘重な而も真剣な意気に感じ入りました、[中略] 初めて之を拝見した私は先づ疑つたのであります。何故なればあれだけ優れた政治家であり学問も広く、文雅に長じ而も経済上のことにも深く意を用ひられる人にして、「若し自分の願ひが聞届けられないなら、一命を取つて下さい」とまで記されたのはどう云ふ訳か、少し業々し過ぎるではないかと云ふ風に感ぜられたからであります。然しよくよくその事情に就て考へて見ますと、公の老中になられた当時は、実に日本の国の政治を執るには容易ならぬ時でありまして、全く一身を捨てかゝる大覚悟を要する場合であつたのであります。[中略] 兎に角公が老中として立たれるに就ては真に悲壮な御考へであつたとお察しするのでありまして、右の心願書の如きは公の確固たる御覚悟の程を知る唯一のものであると思ひます。
[中略] 誠に当時の幕政は日に乱れて、一大危機に立つて居たのでありますから、その衝に当るに際しては、右のやうな一身をかけた必死のこの心願書を認められたのも道理でありませう、そしてどことなく強硬な願意が籠めてある処に真実悲壮な感じがあり、真剣さが現れて居るのだと思ひます。
[中略] 今日斯う云ふ人が廟堂に立つて居たらと思ひます。殊更現代の政治の善し悪しを私が申すのではありませんが、たゞ公の如き賢相があつたらと心から渇仰の念を禁じ得ないのであります。
[中略] 要するに松平楽翁公は各方面に行亘つて実に秀れたお方でありましたから、公の事績を永く世間の人々に伝へたく、とりわけ東京市民は公から直接の恵みを受けて居るのでありますから、公の人となりを知つて居て頂きたいと思ふ余り、私共が打ち寄つて此度この遺徳顕彰会を組織した次第であります。[後略]
         (六月十四日東京商工奨励館に於ける講演)
(『渋沢栄一伝記資料』第49巻p.129-132)

翌1930(昭和5)年に楽翁公遺徳顕彰会は財団法人となり、渋沢栄一は没年に至るまで同会の会長を務めました。

参考:松平定信
〔国指定文化財等データベース - 文化庁
http://www.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp?register_id=401&item_id=692