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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1912(大正元年)年8月30日(金) (72歳) 渋沢喜作、他界 【『渋沢栄一伝記資料』第57巻掲載】

是日、栄一の従兄渋沢喜作逝く。九月四日栄一、芝増上寺に於ける葬儀に列して、追悼の辞を述ぶ。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 3部 身辺 / 1章 家庭生活 / 1節 同族・親族 / 2款 親族 【第57巻 p.71-77】

竜門雑誌  第二九二号・第五九頁 大正元年九月
渋沢喜作君逝去 青渊先生の従兄渋沢喜作君は予ねて僂麻窒斯の宿痾あり、日頃囲碁を嗜みて静養怠りなかりしが、八月二十九日に至り脱疽病を併発し病勢俄に募りて医薬竟に効を奏せず、翌三十日午前一時溘焉逝去せられたり、亨年七十五歳。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第57巻p.71掲載)

渋沢喜作
  文左衛門の長男。初め成一郎と称した。幕末に当って、栄一、尾高惇忠等と倒幕運動を起し、文久三年栄一と共に故郷を亡命して京都に赴き、一橋家家臣となり、維新の際、彰義隊隊長となったが、分れて振武軍を組織し、飯能に戦う。敗れて五稜廓に逃れ、官軍に降り、明治五年特赦となる。後、赦されて大蔵省に出仕したが、辞して小野組に入り、更に横浜に生糸問屋渋沢商店を開く。又、深川に正米市場を起し、頭取に就任した。その他多くの事業に関与した。天保九年(一八三八)―大正元年(一九一二)
(『渋沢栄一伝記資料』別巻4 p.611掲載、宛名人名録より)

渋沢栄一の従兄、渋沢喜作(しぶさわ・きさく、1838-1912)の訃報と葬儀の様子は『竜門雑誌』第292号からの再録として『渋沢栄一伝記資料』第57巻p.71-72に紹介されています。また葬儀における栄一の弔辞は、同書p.72-77に同じく『竜門雑誌』からの再録として紹介されています。

竜門雑誌  第二九二号・第一五―二二頁 大正元年九月
    ○秀総院喜作居士の霊前に於て    青渊先生
本日の葬儀に際しまして、私は秀総院喜作居士[渋沢喜作]とは殊に深い因縁を持つて居りまするので、玆に一言の弔辞を述べたうございます、御会葬の道俗各位及御親戚の皆様方にも、炎暑の際長い時間を煩はしまするのを深く恐縮に存じますけれども、此幽明の大別離に於て私の衷情を一言申述べることを、御許容を蒙りたいのでございます。
私が居士との交誼は、親戚の関係は申すまでもございまぬが、第一に郷里を同うし、又年輩を等うし、其嗜好に、其業体に、其教育に殆ど一身分体と申しても宜しい有様に成長致したのでございます、時恰も時勢の変遷に遭遇しまして、共に郷里を去つて、一身の位地を変更すると云ふ場合に至り、再び転じて遂に此聖代に浴すると云ふ境遇に至りまする其径路は、所謂高山もあれば、大川もあり、峻嶺もあれば、懸崖もあり、又或る場合には其道路平坦砥の如く、春の霞の長閑な時にも際会致したのでございます。
居士と私との生涯は之を別けて三段に言ひ得ると思ふのでございます[。] 郷里に成長致して、共に其業を勉め、其業務の間に農民ながら文武の道に心懸け、聊か社会国家に貢献しやうと考へたことも、全く同一でございます、[中略] 此郷里を去るまでが、前に三段に別け得ると申した其第一期と云うて宜からうと思ふのでございます。
[中略] 政治の方面は新旧二つに別れますけれども、一橋に仕へ、幕府に任じ、再び朝廷に出るといふ此歳月が殆ど六七年許でございませう、之が前に申す第三期の中の第二段に属する居士身上の経過であると申して宜からうと思ふのでございます、[中略]
明治七年現政府の職を辞しましてからが、実業界の居士であります、[中略] 此等実業界に於ける居士の経過が即ち第三期に属するものと申して宜からうと思ひます。
数へ来りますると、幼少から致して凡庸ならぬ才能を抱持し、逞しい気力を以て郷里に生長し、遂に農民に安んずることの出来ぬやうに成つたのは、其身の幸か不幸か、これは世間の公論にお任せする外はございませぬが、郷里を去つて遂に前に申述べました如き変化を致しましたのでございます、之を要するに、家に在ては孝悌の子、国に在ては忠義の臣、又聖世に処しては良民たることを失はぬやうに私は思ふのであります、但し居士の性質は或は実業界の人たるよりは他方面に力を伸すことが出来たであつたかも知れぬと思ふのでございます、否実業界に力が無いとは申さぬが、より以上他の方面にあつたかも知れぬ、併し斯の如く聖世であるから、時非なりと申す言葉は、甚だ穏当でございませぬが、此秀総院喜作居士に取つては、必ず其時勢が総て居士に利益ある場合であつたとは言へぬかも知れぬのでございます、誠に居士をして軍務に従事せしめ、或は政治に従事せしめたならば、更に大に為す所があつたかも知れぬと思ひます、これは唯私が親みを厚うし情を同うしたからの偏頗な評に失するかも知れませぬ、唯自ら信ずる所を述べて居士を慰めたいと思ふのでございます、併し居士は決して現世に十分我能力を発揮したと云へぬ嫌はありますが、仮に第三期に於ける生糸に米穀に、是等の事業に於て身自ら其端緒を開き、後継者孜々として之を整理拡張して居るとすれば、居士の長所は充分発揮せしものと言ふべくして、居士も瞑し得られるであらうと思ふのでございます、述べ来つて殆ど七十年に近い居士と私との関係を、玆に弔辞として手向けまするのは転た感慨に堪えませぬのでございます[。]私は玆に甚だ蕪辞でございますが、一絶の詩を得ましたから霊前に手向けたうございます。蓋し喜作居士は蘆陰と号しましたから、これを用ゐたのでございます。
    哭蘆陰兄
 従此与誰談旧思  人間無復認雄姿
 潸然今日炷香処  却憶高歌弾鋏時
                   青渊 渋沢栄一
(『渋沢栄一伝記資料』第57巻p.72-77)

 

参考:木村昌人「渋沢喜作」 - 朝日日本歴史人物事典の解説
コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E5%96%9C%E4%BD%9C
渋沢喜作
〔人物館 - ふかやデジタルミュージアム
http://www.city.fukaya.saitama.jp/~museum/portrait/archives/61.html