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情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 慶応2年丙寅11月29日[西暦:1867年1月4日] (26歳) 渋沢篤太夫(栄一)、徳川昭武渡仏にあたり随行の内命を受ける 【『渋沢栄一伝記資料』第1巻掲載】

是より先、将軍徳川慶喜徳川昭武を明年仏国巴里に開かるべき万国博覧会に派遣し事畢るの後昭武を同国に留学せしめんとす。是日栄一特に内命を承けて之に随行するに決す。尋で十二月七日俗事を取扱ふ可しとの命を受け、同月二十一日班を勘定格に進めらる。此時栄一未だ男子なかりしを以て義弟平九郎を養嗣子と定む。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 1編 在郷及ビ仕官時代 天保十一年-明治六年 / 2部 亡命及ビ仕官時代 / 2章 幕府仕官時代 【第1巻 p.436-450】

慶応2丙寅年11月29日、渋沢篤太夫(栄一)は幕臣原市之進(はら・いちのしん、1830-1867)より徳川昭武(とくがわ・あきたけ、1853-1910)渡仏随行を打診され、即応しました。『渋沢栄一伝記資料』第1巻には、栄一が語った当時の心情、従兄渋沢喜作(しぶさわ・きさく、1838-1912)に語った内容等が回想録『雨夜譚』からの再録として、次のように紹介されています。

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之三・第一八―二一丁 〔明治二〇年〕
[前略] 其時の嬉しさは、実に何とも譬ふるに物がなかつた。自分が心で思つたには、人といふものは不意に僥倖が来るものだと、速に御受を致しますから、是非御遣しを願ひます、ドノ様な艱苦も決して厭ひませぬと、原市之進に答へまして、[中略] 自分は此の洋行の内命を大に喜んで、郷里の父へも其事を文通したが、喜作は此の時、[中略] 御用を負ひて旅行の留守中であつて、何時頃帰つて来るか分らない、併し最初から死生を共にしやうと約束した厚い友人のことだから、海外へ往く前に、是非一度逢いたいと思つて、今度命ぜられた御用の一部始終を認めて、斯様な訳だから、成丈ケ早く帰れるなら帰つて貰ひたい、万一帰りの遅いときには、或は行違つて逢はぬかも知れぬと、急状を出して置いて、夫れから専ら外国行の支度に取掛つた、[中略] 夫から京都の借家の始末をして、衣類道具等の片附も大抵終つた処へ、喜作が江戸から帰つて来たから面会の上、丁寧に是までの手続きを話して、自分は幸に此の命を受けたから、誠に高運だが、其れに附ても貴契の身上が思ひ遣られる、トいつて再び浪人になる訳にもいかぬから(いつそ運を天に任せて、慶喜公に昵近し得らるゝ位地を求める様になさい、併しながら徳川の政府はモウ長い事はないから、亡国の臣となることは覚悟をして居なければならぬ、勿論これは海外に居つたからといつても同様である、御互に最初は徳川の幕府を滅する意念で、故郷をも離れた身体であるけれども今日此の位置になつた以上は、急に変換することも出来ぬから、亡国の臣たることを甘んずるより外はないが、それにしても只末路に不体裁な事がないやうにしたい、僕は海外に居り、貴契は御国に居て、其居所は隔絶することになつたが、此の末路に関しては共に能く注意して、耻かしからぬ挙動をして、如何にも有志の丈夫らしく、死ぬべき時には死耻を残さぬやうにしたいものだと、互に後事を談合して告別をした [後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.436-438掲載)

また、渡仏にあたり尾高平九郎(おだか・へいくろう、1847-1868)を見立て養子とした経緯については同じく栄一による回想が『雨夜譚会談話筆記』からの再録として次のように記されています。

雨夜譚会談話筆記 下・第六〇九―六一九頁 〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
私が仏蘭西に行くに就ては、其頃の法律の規定によつて相続者を定めなければならなかつた。所謂『嗣無ければ国除かる』で一家の相続者が無ければ其家が断絶する事になつて居つた。それでは気の毒だからと云ふので海外旅行者の為めに特に見立養子の方法が許されて居た。之れは変則である。けれども特に恩典があつたのである。私も仏蘭西に行くに就て別に良案がなかつたので、手紙で平九郎を見立養子にする事を言つてやった。此時は事が少し急であつた為め、京都で届出をしてから、所謂事後承諾を求める為め郷里に手紙を出して、其の返事を待たずして出掛けた。」
(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.443掲載)

なお、栄一の名前については『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.2-3掲載の『雨夜譚会談話筆記』において、次のように紹介されています。
生誕時・・・・・・・・・・・・・・・・市三郎
幼い頃・・・・・・・・・・・・・・・・栄治郎・栄一郎
名乗り(幼少時)・・・・・・・・・美雄
名乗り(17歳)・・・・・・・・・・・栄一
幕臣時代・・・・・・・・・・・・・・篤太夫
維新後・・・・・・・・・・・・・・・・篤太郎
明治初年、大蔵省時代・・・・源ノ栄一(ヒデカズ)
法律で複数名禁止後・・・・・・栄一
号・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青淵
字名・・・・・・・・・・・・・・・・・・仁栄
 
参考:[今日の栄一] 慶応3年丁卯11月9日[西暦:1867年12月4日] (27歳) 渋沢栄一徳川昭武の随員としてイギリスを訪れる
〔実業史研究情報センター・ブログ「情報の扉の、そのまた向こう」 - 2009年11月9日〕
http://d.hatena.ne.jp/tobira/20091109/1257735115
[今日の栄一] 1928(昭和3)年1月25日(水) (87歳) 『渋沢栄一滞仏日記』刊行
〔実業史研究情報センター・ブログ「情報の扉の、そのまた向こう」 - 2010年1月25日〕
http://d.hatena.ne.jp/tobira/20100125/1264384769