是より先、大正三年十一月、粕谷義三郎、東京市外代々木に東京育英実務学校を創設す。大正七年三月、中島力造・本多静六等を介し栄一に助力を乞ふ。栄一当校設立の趣旨に賛し、維持費として金千円を寄付す。更に是日栄一、当校のため資金勧募の計を立て、金千円を寄付す。
出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 5章 教育 / 1節 実業教育[承前] / 13款 財団法人東京育英実業学校 【第44巻 p.502-505】
竜門雑誌 第三七〇号・第七六頁大正八年三月
○育英実務学校 健全なる人格教育と商工的能率増進の実務教育を施すべく、生徒二名、教師五名の奇観を呈しつゝ開校したる、既報府下代々木の育英実務学校(校長粕谷義三郎氏)は、其後青淵先生初め早川千吉郎・服部金太郎氏等の尽力により、新校舎建築に着手し、近く四月の新学期より百名の生徒を収容する由。
(『渋沢栄一伝記資料』第44巻p.505掲載)
渋沢栄一は、粕谷義三郎から中島力造(なかじま・りきぞう、1858-1918)を経由して育英実務学校(後に東京育英実業学校)設立への寄付依頼を受けました。当初、栄一は粕谷に対し、学校経営は困難である、寄宿寮のようなものを経営してはどうかと提案しましたが、初志貫徹を願う粕谷のために、1919(大正8)年12月20日に「自分ノ名義デ依頼状(後出)ヲ出サウ、ソレニ就テハ本多博士ヲ教務顧問ニ渋谷正吉・諸井恒平・渡辺得男ノ三氏ヲ会計顧問ニスルコトニシヨウ」と、次のような依頼状をしたためています。
粕谷義三郎氏所蔵文書
拝啓、益々御清適奉賀候、然ハ粕谷義三郎氏創設之私立育英実務学校付ニ而ハ先般御同様相共ニ其趣旨ヲ賛成シ、応分之寄附金致し候処、同氏は無謀にも学校之拡張を計るに急なる為め、資金の出処をも考慮せすして校舎を新築し、既に其落成に近きも資財不足之趣にて過般来毎度来訪懇請の次第も有之、殊に去る十月中本多博士之通知によりて老生も実地に臨み、校舎建築之現況熟覧いたし候へとも、其規模計画等全然資財との権衡を失し、如何にも惨情見るに忍ひさる有様に御座候、依而本多博士と再三討議致候も折角新築之校舎を此儘抛棄せしめ候も真に残酷之処置と存候間、御同様曩に寄附いたし候金額丈ケを此際更に醵出致し候ものと定め、其集金之範囲内を以て何とか節約之経営方法相立、本学校当初之目的を細々にも維持為致度と存候、就てハ何共恐縮之至に候へとも賢台に於ても金 円を再応御寄附被下候様願上候、右様御依頼申上候に付而ハ向後本学校教務之監督は本多博士に、又其経営に関する財務之取締方は渋谷正吉・諸井恒平・渡辺得男之三氏に御担当相願候筈に御座候、何卒本学校之現状と粕谷氏目下の境遇に御同情被下、既成之仏体に眼睛を点するの思召を以て如上之願意御採納相成候様懇祈仕候、右可得貴意如此御座候 敬具
渋沢栄一
[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第44巻p.503-504掲載)
『渋沢栄一伝記資料』第44巻p.502-503には栄一と育英実務学校との関係が「粕谷義三郎談話筆記」からの再録として、同巻p.503-504には栄一が粕谷のためにしたためた依頼状が「粕谷義三郎氏所蔵文書」として、またp.505-512には同校が1924(大正13)年に甲種商業学校としての認可を受けたことのほか、東京育英実業学校沿革、教育方針等がさまざまな資料からの再録として紹介されています。
粕谷義三郎
東京育英実業学校校長。
(『渋沢栄一伝記資料』別巻第4 p.606掲載、)
参考:学制百年史 資料編 [一 教育法規等 (六) 商業学校規程(抄)]
〔文部科学省〕
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198102/hpbz198102_2_123.html