是より先、昨二十四年八月、東京商工会閉鎖により、是日を以て栄一、益田孝と共に当委員会臨時委員を免ぜらる。次いで三月二十五日、東京商業会議所の推薦により再び命ぜらる。
出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 2部 社会公共事業 / 6章 政治・自治行政 / 2節 自治行政 / 2款 東京市区改正及ビ東京湾築港 / 3 東京市区改正委員会 【第28巻 p.180-185】
東京市区改正委員会とは、「東京市区改正ノ設計及毎年度ニ於テ施行スヘキ事業ヲ議定スル為メ」、「東京市区改正条例」によって1888(明治21)年10月5日に設置された委員会です。渋沢栄一は1888(明治21)年10月31日より東京商工会会員として益田孝(ますだ・たかし、1848-1938)とともに東京市区改正委員会臨時委員をつとめていました。
勅令第六十二号 (官報 八月十七日)
東京市区改正条例
第一条 東京市区改正ノ設計及毎年度ニ於テ施行スヘキ事業ヲ議定スル為メ、東京市区改正委員会ヲ置キ、内務大臣ノ監督ニ属セシム、其組織権限ハ閣令ヲ以テ之ヲ定ム
[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第28巻p.47掲載)
官報 第一六〇四号 明治二一年一一月一日
叙任及辞令
[中略]
(各通) 東京商工会員
渋沢栄一
東京商工会員
益田孝
東京市区改正臨時委員ヲ命ズ
(十月三十一日 内閣)
(『渋沢栄一伝記資料』第28巻p.53掲載)
1891(明治24)年8月の東京商工会解散にともない、一旦、栄一と益田孝は東京市区改正委員会臨時委員を免ぜられますが、その後、東京商工会の事業を継承した東京商業会議所から推薦を受けて、再び臨時委員に就任しました。栄一は1904(明治37)年10月に辞任するまで、都合16年間にわたり同委員会に関与しています。『渋沢栄一伝記資料』別巻第5には89歳の栄一による回想が次のように記されています。
雨夜譚会 第二十七回
第二十七回雨夜譚会は昭和四年十二月二十四日午後三時半より、丸之内の渋沢事務所に於て開かる。出席者は青淵先生、篤二氏、敬三氏、渋沢元治氏、渡辺氏、小畑氏、佐治氏、高田氏、係員岡田、泉。
[中略]
二、東京湾築港問題に就て
先生。 [中略]
当時の市区改正問題の要点と云ふのは、要するに東京を単に帝都として品のいい美麗な街にするか、それとも商工業の見地からして港湾をも取入れて、所謂産業都市たらしむるかと云ふ二つの説があつた。それには西洋諸国の実状を参考として、白耳義のブルツセルの如く全然港湾の連絡がない帝都と、倫敦のやうに水陸の便を持つてゐる帝都の比較もした。私としては、どうしても将来東京が大都会としての発展を希望する上は、単に上品な街として丈けでは不十分である、どうしても産業都市としての設備も必要であるとして強く論じ、新聞にも載せた事を覚えてゐる。勿論これは私一人の論ではないが、主として此方面の論をやつたのは私と益田孝氏だつたやうだ。海外との連絡は横浜でやると言つても、横浜のみに頼つて居つては駄目だ、宜しく横浜を玄関前として東京自身でも港湾の設備を持たなければいけない。現に大阪はさうだ。東京もやればやれない事はないと云つた訳であつた。勿論これは専門家の云ふやうな論ではなかつた。それから東京市内の道路に就ても、これを広くする事又道路を造るには宮城を中心にしてどんな風に造るか。京都のやうに碁盤目形にするか、それとも巴里のグランド・オペラを中心にしてあるやうに放射線にするか。これは放射線にしたがよいと云ふ事になつたやうだつた。尚ほ港湾の方の問題については、その後私は大して関係しなかつたから、その後の事をよく知らないが、浅野総一郎氏が東京湾の埋立会社を創立して築港事業を起したから、この事業に援助してやつた。
[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』別巻第5 p.691-692掲載)
参考:東京改造に関する最初のグランド・プラン 明治18年修正市区改正及品海築港略図
〔web版公文書館の書庫から - 東京都公文書館〕
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0701syoko_kara08.htm
[今日の栄一] 1877(明治10)年12月27日(木) (37歳) 渋沢栄一、東京商法会議所設立を東京府知事に請願
〔実業史研究情報センター・ブログ「情報の扉の、そのまた向こう」 - 2010年12月27日〕
http://d.hatena.ne.jp/tobira/20101227/1293377219