記事タイトル : 憂ふべき社会相
初出 : 『事業之日本』 第6巻第5号(事業之日本社, 1927.05) p.11-18
関東大震災からの4年弱が経過した1927(昭和2)年5月、渋沢栄一は『事業之日本』に寄せた一文の中で、関東大震災と復興に関連して次のようなことばを述べています。
事業之日本 第六巻第五号 昭和二年五月
憂ふべき社会相
渋沢栄一
[中略]
私に云はせると知識の発達
と云ふ事は非常に結構ではあるが、之れに道徳が伴はぬと反つて其の弊害に堪へられなくなる。例へば欧洲戦争に独逸が使用した毒瓦斯なども、文化が発達した為めに出来たものであるが、それが為に多数の死傷者を出すやうになつた。文明の利器は総じて利器であると共に悪器である。故に之を悪用すると否とは使用者の人格如何による事であつて、其処に仁義の必要が生ずるのである。
私どもは儒教の訓へを受けたので「仁義」と云ふが、[中略] 仁義の心なくして永遠の平和を望む事は不可能である。尤も如何に仁義の道が大切だからと云つて、之れに経済が伴はなければ折角其の衿持する所も実行不能に陥り、経済生活の落伍者とならねばならぬから、事業経営の衝に当るものは常に最新の学理を応用し、冗を省いて能率を増進する事に努力せねばならぬ。
今回の震災手形の如きも
借金をして支払ひの遅れたものが助かり、真面目に返済したものが馬鹿を見たと云ふ風に見えるが、併し之れは、借家人が家賃を滞納して最後に引越金まで貰つて行くのに対し、真面目に家賃を支払ふものは、其の尻拭ひをすると考へられるのと同一で、一見悪人の方が割がいいやうであるが、斯うした事が永久に繁栄を来すものではない。陰徳あれば陽報あるには相違ないが、扨て其の陽報が何時来るかは不明であるが、予め打算を以つて之をなすと云ふ事は避けねばならぬ。
之を要するに、銀行と云ひ会社と云ひ、総ての事業経営には知識の外に徳義を加へねばならぬ。道徳経済の二つがピツタリ接触して進まなければ人類永遠の平和と進歩は望まれないのである。
(『渋沢栄一伝記資料』別巻第8 p.113-114)