情報資源センター・ブログ

情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 【帝国ホテル. 10】 〔番外編2〕 喜賓会の解散。「古木を截り捨てゝ、より良き新芽を充分に発育せしむる」

1914(大正3)年3月11日
是日、喜賓会解散式帝国ホテルに挙行せらる。栄一出席して挨拶を述ぶ。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 3節 国際団体及ビ親善事業 / 1款 喜賓会 【第36巻 p.5-10】

 喜賓会とは外客誘致のために1893(明治26)年3月に渋沢栄一蜂須賀茂韶(はちすか・もちあき、1846-1918)・益田孝(ますだ・たかし、1848-1938)等とともに組織した団体で、栄一は設立時には幹事長、1902(明治35)年5月からは副会長を務めていました。外国からの旅行客の便宜を図るため各種案内書発行などの活動を行っていた同会は、1912(明治45)年に官民合同のジャパン・ツーリスト・ビューロー設立にともない、その役目を終えたとして解散しました。
 1914(大正3)年3月11日、帝国ホテルにおいて挙行された喜賓会解散式の席上で、栄一は次のような挨拶を述べています。

竜門雑誌 第三一〇号・第八三―八四頁 大正三年三月
○喜賓会解散始末
[前略] 本会は明治二十五年十月発起員相談会を開き、二十六年三月発会を挙げました、[中略]
会名は我有嘉賓中心喜之といへる詩句より採り来つたものでございます、即ち観光外客を歓待することを始終一貫努力したのみでございます、[中略] 本会に於ては此等顕著なる人に対し、時には歓迎会を催ふしたり、又は相当の敬意を払ひまして款待の意を表しました、併し本会が主として紹介の労を執りましたのは、本邦人間に知友少なき普通観光者に対する場合が多くありましたので、斯る我事情に不案内なる人々を好遇致してまして、其旅行上及視察上出来得丈助力を与へましたのでございます
本会創立当時に於きましては、外人旅行携帯に適する案内地図類は極めて欠乏して居ましたから、本会は先づ英文日本案内地図を刊行して此欠を補ひました、続いて各種の案内書冊類を多数発行致しまして内地旅行視察の便益を供し、又一面に於ては之を海外へ汎く頒ちまして本邦来遊の手引と致しました
[中略] 今や我邦に於きましては運輸交通業者等に依て本会と目的を同ふする機関が出来ましたから、此際本会の解散は丁度時機を得たことゝ考へます、茲に庭園栽培者ありと仮定致しませう、園内に一古木あるため他の新芽の生長を害する場合がありますれば、此古木を截り捨てゝ、より良き新芽を充分に発育せしむる手段を執るの必要なることは、謂ふ迄もございませぬ、而してそれが単に眇たる新芽に非ずして、既に已に大に頭角を伸ばし生長せんとするものなれば、尚更之が発育に障害の嫌ある古木を除去することは当然の処置でございませう
此意味に於て本会は茲に解散式を挙げまして、将来大に新機関が発展致しますことを邦家の為めに切に希望する次第でございます、[後略]
『渋沢栄一伝記資料』第36巻p.5-6)

「桜樹自費植付願」
「喜賓会解散報告書 : 大正三年三月」(喜賓会本部, 1914.03)
(渋沢史料館所蔵)

渋沢栄一伝記資料』喜賓会の項には、同報告書から以下の記事が再録されている。「喜賓会解散之始末」「喜賓会事業之梗概」「創立目的及役員」「旅館に関すること」「案内業者に関すること」「観覧視察上の便を謀ること」「外賓の款待に関すること」「案内書及案内地図に関すること」「喜賓会会長及役員」「喜賓会会員(イロハ順)」「資金募集及出版物頒布賛助者醵出金に関すること」

 また『伝記資料』別巻第5 p.686-687には、89歳の栄一が外客誘致策について回想した言葉が収載されています。その中で栄一は喜賓会と帝国ホテルについて次のように語っています。

    雨夜譚会 第二十六回
    一、外客誘致策に就て
第二十六回雨夜譚会は、昭和四年十月二十九日午後四時より渋沢事務所に於て催さる。[中略]
外客誘致策と云ふ程でもないが、明治二十年の頃、多少それに類した事を企てた事がある。[中略] 喜賓会はその時組織された [中略] 外客をお世話すると云つても、唯漠然と無責任な案内をする丈ではいかぬ、それには鉄道の連絡、其他ホテルの設備等が是非必要となつて来たのである。
[中略] それから鉄道院の方でツーリスト・ビユーローを設立して、組織的に外客接待をやる事になつたので、喜賓会の事業もそれに譲り、大正三年に解散したのである。
考へて見ると、喜賓会の企ては素人の集りで、所謂聞き学問でやつた次第で、外客接待の事も唯其一部分に着手したに過ぎない。そんな具合で、喜賓会の事業が果してツーリスト・ビユーローに貢献したかどうかも疑問である。けれども喜賓会の企ては決して無駄ではなかつた。着眼は確かによかつたと思ふ。[中略] 今日ツーリスト・ビユーローは世間の叱言が出ない所を見ると相当にやつてゐると思ふ。
帝国ホテルの創立も、矢張外人接待の必要から生じたのだつた。井上さんが、明治二十年頃外務大臣を罷めて建築局総裁に立たれた時私が首唱して帝国ホテルを設立したと云つてもよい。何でも宮内省も株主としての関係があると思ふ。帝国ホテルは現在どんな成績を挙げてゐるだらうか。配当はやつてゐるだらうか。
[後略]
『渋沢栄一伝記資料』別巻第5 p.686-687)

 なお、ジャパン・ツーリスト・ビューローの後継団体、日本交通公社の社史『五十年史 : 1912-1962』(日本交通公社, 1962.09)には、同社および喜賓会に関する記述があります。その概要については渋沢社史データベースの「会社沿革と社史メモ」で紹介されています。

参考リンク