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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 渋沢栄一と平九郎 第1回「川合鱗三に贈る書」

 現在、渋沢史料館では渋沢平九郎没後150年に合わせ、収蔵品展「渋沢平九郎 ―幕末維新、二十歳の決断―」を開催中です。情報資源センターでは収蔵品展に合わせて、平九郎に関する情報を紹介します。

 第1回は、平九郎の刀をテーマに、渋沢栄一の残したことばを紹介します。
 栄一は1867(慶応3)年の渡仏の際、家督安堵のため、従弟である尾高平九郎を養子としました。平九郎は幕臣の子として江戸で暮らしはじめましたが、戊辰戦争が始まると彰義隊、またそこから分離した振武軍に参加して、現在の埼玉県飯能市域で新政府軍と戦いました。しかし、振武軍は敗北し、平九郎は一人落ち延びる途中、現在の埼玉県越生町黒山にて自刃しました。
 その時平九郎が持っていた小刀は、1893(明治26)年になって栄一のもとへ戻されました。翌年栄一は、小刀を寄贈した元広島藩藩士の川合鱗三らを自宅に招き、謝意を表しました。その席で栄一が書いた感謝の文は『竜門雑誌』に掲載されています。

 川合鱗三に贈る書
川吉[合]鱗三君足下、頃日義子平九郎の遺刀を贈還せられ、副ふるに其誌一篇を以てせらる、誌中に謂ふ、斯刀、戊辰の戦、義子武州飯能駅の敗後、黒山村に於て旧芸州藩斥候兵に薄られ、其一兵を斫り、身亦創を被り、遂に屠腹自ら斃れたるの時、其碧血を濺ぎたる者なりと、君の高懐盛情感謝に堪へざるなり、生今其刀を視て其誌を読み、曽て戚族より聞知せしものに照すに恰も符節を合するか如し、義子の死を去る廿七年の今日に於て、宛然其人に会ひ、其境を踏むの感あらしむ、悲喜交々至り、懐旧の情禁する能はず、回顧すれば当年生は仏国に旅寓し遠く邦家の政変を聞き、事情詳悉する能はすして、常に憂苦に堪へさりし、而して義子及戚族数名、慷慨節を重じ、志士を糾合して以て回復を図るも、時利あらず、兵整はずして一戦敗績し、遂に自尽する者は、君の所謂蓋し愧為生擒也、且義子の平生を以て之を見れば、再図の功期すへからさるを知り、復た江東の子弟を見るを欲せず、一死自ら潔くするものにあらさらんや、然り而して其敵なる者は君か率ふる所の兵士にして、其屠腹の刀君が手に存し、多年重愛を辱ふし、雲晴れ風収まるの今日に至りて初めて生に帰す、真に奇遇というふべし、且夫れ釈氏の法、廿七年を以て弔祭の期となす、想ふに義子の霊、斯の尺余の秋水に憑依し、君の高情に藉りて以て、今日を俟つ者にあらさりしならんや、是れ皆君の高賚なれば、生は永く之を存録して悠久忘るへからさるなり、嗚呼戊辰の変、一朝誤て干才に及ぶ、実に勢已むへからさるものあり、然りと雖大義早く定り、名分随て判れ、其争ふもの、久しからずして共に一視同仁の雨露に潤ふ、真に感泣に堪へざるなり、此に於て一旦敵視せしものも相携て治を賛し、徳を頌す、縦令死者再ひ生きすといふとも、天恩の枯骨に及ぶを視る、亦恨みなしといふへし、茲に謝意を表するに臨み、万感交生して言はんと欲する所を尽す能はず、君請ふ之を諒恕せよ、
明治廿七年六月一日   渋沢栄一 粛復

  • 出典 : 『竜門雑誌』第139号(竜門社, 1899.12)p.28

*一部旧字は新字に置き換えています。出典原文での明らかな誤記については、該当文字の直後に[ ]で補記しました。

 収蔵品展では、上記の小刀と思われる写真が掲載された冊子『渋沢平九郎追懐碑』、返贈の経緯をまとめた「昌忠君遺刀略記」の写し、平九郎が所有していた大刀等を展示しています(大刀の展示は9月11日まで)。大刀は、平九郎が飯能の陣中で配下に託したといわれ、栄一の死後、1940(昭和15)年に渋沢家に返贈されたものです。

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