情報資源センター・ブログ

情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 渋沢栄一と平九郎 第2回「平九郎戦死の跡を弔う」

 現在、渋沢史料館では渋沢平九郎没後150年に合わせ、収蔵品展「渋沢平九郎 ―幕末維新、二十歳の決断―」を開催中です。情報資源センターでは収蔵品展に合わせて、平九郎に関する情報を紹介します。

 渋沢栄一は、養子渋沢平九郎の自刃の地である入間郡梅園村黒山(現在の埼玉県越生町黒山)へ、後年墓参のために訪れています。今回は、栄一が訪問した1899(明治32)年6月25日の様子とその際に詠んだ和歌2首を、栄一の日記から紹介します。
 日記には、栄一が黒山村で平九郎のために仏事を執り行い、平九郎の最期を知る村人によって当時の状況が語られたことが記されています。和歌では、墓の上に咲く「あふひ」(葵)の花を通して、幕末の動乱の中で若くして散った平九郎を偲んでいます。

 [明治三十二年]六月廿五日
曇、午前七時越生ヲ発シ、腕車ヲ僦テ黒山ニ抵ル、雨後ノ道路殊ニ山間陜(狭)隘ニシテ頗ル険悪ナリ、午前九時黒山村平九郎戦没ノ地ニ達ス、寺院ニ於テ仏事ヲ営ム、村人来リ会スル者三四十人許リナリ、且平九郎戦没当時ノ状況ヲ知ル者来リテ其詳細ヲ話説ス、頗ル明亮ニシテ且確実ト認ムルモノ多シ、僧侶ノ読経畢テ一同霊壇ニ向テ香ヲ炷ス、仏事畢テ、再ヒ腕車ニテ越生ニ抵リテ午餐シ、直ニ車ヲ馳テ午後三時前川越ニ抵リ、川越鉄道線ノ列車ニ搭シ、国分寺ニ抵リテ更ニ甲武鉄道線ニ移リ、午後六時過兜町ニ帰宅ス
    黒山村にて悼亡の二首
  なきたまをとふ黒山の墓のうゐ(へ)に夕栄赤くさくあふひかな
  咲もあへす夜半のあらしに花ちりて香をとゝめぬる梅園の里

  • 出典 :『渋沢栄一伝記資料』別巻第一「日記」(竜門社, 1966.04)p.92-93

*一部旧字は新字に置き換えています。冒頭年号は [ ] で補記しました。

 収蔵品展では、今回紹介した文章の掲載部分を含む渋沢栄一日記(写)や1912(明治45)年4月14日に渋沢平九郎が埋葬されていた黒山・全洞院に渋沢栄一が立ち寄った際の写真を展示しています。