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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1931(昭和6)年12月4日 (没後23日) 日米関係委員会の存続決定 【『渋沢栄一伝記資料』第35巻掲載】

是より先十一月十一日、栄一歿す。仍つて是日、当委員会委員有志相諮り、丸の内東京銀行倶楽部に会して栄一の遺志を継ぎ、且つアメリカ合衆国サン・フランシスコ、ハワイ及びニュー・ヨークの三米日関係委員会の希望を斟み、当委員会を存続すべき事を申合はす。翌昭和七年一月二十二日会員総会を同所に開きて之を決議す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 2節 米国加州日本移民排斥問題 / 3款 日米関係委員会 【第35巻 p.234-244】
・『渋沢栄一伝記資料』第35巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/35.html

日米関係委員会は「日米親善のため、常に両国民の情意を調和・融合させて、問題があればその解決に勉める」ことを目的に、1916(大正5)年に組織された団体でした。
渋沢栄一没後の1931(昭和6)年12月4日、日米関係委員会有志による会議が開催され、委員会存続の是非が検討されました。会議冒頭で阪谷芳郎(さかたに・よしろう、1863-1941)は、「本会は渋沢子爵によつて組織せられ、渋沢子爵を中心として活動して来たものでありますから、子爵逝去の今日、将来を如何にすべきか即ち此機会に止めるか、存続するかといふことは当然起るべき問題であります」、「渋沢子爵が逝去されたからと云ふ理由で廃止するのは故子爵の御意志でないと考へます。」(『渋沢栄一伝記資料』第35巻p.235)と述べています。この時、藤山雷太(ふじやま・らいた、1863-1938)、団琢磨(だん・たくま、1858-1932)、阪谷芳郎の3氏を常務委員として会を存続させることが申し合わされました。
渋沢栄一伝記資料』第35巻p.234-237に「日米関係委員会集会記事摘要(二)」からの転載として当日の議事録が紹介されています。「日米関係委員会」の項目は第33巻p.452から第35巻p.258までを占めており、『渋沢栄一伝記資料』の中でも特に大きな項目となっています。