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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1893(明治26)年2月12日 (52歳) 鉄道会議で児玉源太郎と激論 【『渋沢栄一伝記資料』第23巻掲載】

日栄一、第一回鉄道会議に出席し、奥羽線中軍部の主張する仁別線を廃して檜山線又は能代線を取らんことを力説し、陸軍中将児玉源太郎と激論す。十三日に至り檜山線を取るに決す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 1部 社会公共事業 [実業・経済] / 8章 政府諸会 / 1節 諮問会議 / 1款 鉄道会議 【第23巻 p.111-118】
・『渋沢栄一伝記資料』第23巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/23.html

渋沢栄一伝記資料』第23巻p.118には、87歳になった渋沢栄一が、陸軍中将児玉源太郎と激論を交わした当時のことを回顧して、「雨夜譚会」で以下のように語ったことが紹介されています。

    鉄道会議と鉄道国有
先生「○中略 それは彼の鉄道会議で明治廿五年のことであつた。会議の席上川上操六さんと大議論をしたのを憶へて居る。即ち川上さんは軍事上から檜山線が近くなるからとて之を主張し、私は経済上から秋田県能代線を主張した。川上さんは「君は物産の方のみ見て軍事上のことを等閑視する」と云ひ、私は「軍事上のみを考慮して居ては物産や交通の便利が忘れられる」と論じた。鉄道線路の関係が軍事と経済と相反するのは、単に此檜山線と能代線のみではなかつたと思ふ。そして当時は結局私の説が勝を制し「演説は渋沢の方が上手だ」などゝ云はれたことがある。 ○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第23巻p.118、「『雨夜譚会談話筆記 上』第六回 昭和二年四月二十六日」より)

この記事には、「右ノ栄一談話ノ中、川上操六トアルハ児玉源太郎ノ誤、軍部ガ檜山線ヲ主張セリト云フハ仁別線ノ誤リナルコト、前掲議事録記事ニヨリ知ルベシ。」との注釈があり、回想中の名前に誤りがあることが指摘されています。「前掲議事録」とは『渋沢栄一伝記資料』第23巻p.112に掲載されている「第一回鉄道会議議事録速記録」(第9号)のことで、そこには「明治26年2月12日(日曜日)午前11時15分開会」と年月日が記されており、人名・路線名のほか、年にも誤りがあることが分かります。
参考:児玉源太郎(こだま・げんたろう、1852-1906。山口生まれ、陸軍軍人)
〔近代日本人の肖像 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/77.html
川上操六(かわかみ・そうろく、1848-1899。鹿児島生まれ、陸軍軍人)
〔近代日本人の肖像 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/61.html