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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1930(昭和5)年3月10日 (90歳) 元大統領タフトの逝去を悼み、夫人に弔電 【『渋沢栄一伝記資料』第40巻掲載】

日栄一、元アメリカ合衆国大統領ウィリアム・エッチ・タフトの死去を悼み、同夫人に弔電を発す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 7節 其他ノ資料 / 4款 慶弔 【第40巻 p.603-606】
・『渋沢栄一伝記資料』第40巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/40.html
渋沢栄一と第27代アメリカ大統領ウィリアム・ハワード・タフト(William Howard Taft, 1857-1930。就任期間:1909-1913)の間には以下のような交流がありました。

  • 1905(明治38)年7月27日 栄一、来日中のタフト(米国陸軍長官)の歓迎会を芝の紅葉館で開催 (第25巻p.560)
  • 1907(明治40)年9月30日 栄一、来日中のタフト(米国陸軍大臣)の歓迎晩餐会を帝国ホテルで開催 (第25巻p.564)
  • 1909(明治42)年9月19日 渡米実業団団長として訪米中の栄一、ミネアポリスでタフト(大統領)と会見 (第32巻p.141)
  • 1921(大正10)年12月8日 ワシントン軍縮会議で訪米中の栄一、ワシントンでタフト(大統領)を訪問 (第33巻p.241)

栄一はタフトの人柄について、後年以下のように語っています。

   記憶の好いタフト氏
 前々大統領のタフト氏は、誠に好い人であると思ふ。先年タフト氏が一行五六人で我国に来遊された時、私共が主催で紅葉館で歓迎会を催した。其時陪賓として故伊藤博文公を始め皆で二十人許り列席し、純日本式の饗応をなしたが、私は主人側を代表して、設備其他の行届かぬ事と、料理も特に純日本式であるから或は口に合はれぬかも知れないと挨拶した処が、タフト氏は、今席は純日本式の接待の上に、大政治家伊藤公爵を相客とされ、主人公は渋沢男爵始め有名な実業家諸氏である。私は斯かる有力な人々と会見するの機を造られた事が第一の御馳走と心得るといふて、非常に満足の意を表されてあつた。之れがタフト氏との始めての会見である。
 其後、タフト氏の大統領時代に渡米して、ホワイトホース(ミネアポリス)で接見会があつた際に、私は、東京商業会議所会頭であつた中野武営氏・横浜商業会議所会頭であつた大谷嘉兵衛氏等と共に再度の会見をしたのであつたが、能く私を記憶して居つて、私を見ると、バロンシブサワといつて直ちに握手をなし、久濶を叙して、曾て渡日の際の好意を謝し且つ種々談話をしたが、記憶の好い人で、中野・大谷氏等をも知つて居つた。
 政治家としてのタフト氏に就ては深く知らぬが、個人としての氏は如才のない親切な人で、誰にでも好感を与へる応待振りは流石に大政治家であると思つた。○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第25巻p.564掲載、『実業之世界』第18巻第12号(1921.12)「米国十大実業家の印象(承前)(子爵 渋沢栄一)」より)

渋沢栄一伝記資料』第40巻p.603-606には、タフトの死を悼み栄一が1930(昭和5)年3月10日にタフト夫人に送った弔電と夫人からの返信、およびウィリアムの弟、ヘンリー・W・タフト(Henry Waters Taft, 1859-1945。ニューヨーク日本協会会長)宛の栄一の書簡と返信が紹介されています。また、参考資料としてウィリアム・タフト宛の栄一書簡(1928(昭和3)年3月26日付)も掲載されていますが、そこには栄一の回顧が記され、二人の交流の一端を読み取ることができます。
参考:Biography of William Howard Taft
〔About the White House • Presidents - White House〕
http://www.whitehouse.gov/about/presidents/williamhowardtaft/