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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1909(明治42)年6月21日 (69歳) 渋沢栄一、渡米実業団への参加を承諾 【『渋沢栄一伝記資料』第32巻掲載】

是より先、アメリカ合衆国シアトル、スポカン、タコーマ、ポートランドの四商業会議所、前年東京・大阪・京都・横浜・神戸の五商業会議所が其代表者を招待せし懇遇に酬いんが為め、右五商業会議所に対し、其代表者三十名をアメリカ合衆国に招待して友情を温め、且つ、貿易の発達を図らんことを提議し来る。我方之に応じて実業団の派遣を計画し、是日栄一、参加渡米を承諾す。後、サン・フランシスコ、オークランド、ロス・アンジェルス、サン・ディエゴの四商業会議所も招待者に加はり、八月十日「太平洋沿岸聯合商業会議所」の名を以て正式招待状到着す。同日派遣団の名称「渡米実業団」と決定、翌十一日栄一団長に推さる。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 1節 外遊 / 1款 渡米実業団 【第32巻 p.5-47】
・『渋沢栄一伝記資料』第32巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/32.html

1909(明治42)年、米国の商業会議所からの招待を受けて、日本から実業家を中心とするグループが渡米することとなりました。このツアーは商業会議所同志の民間交流でありながら、現地日本領事館や外務省など、国も関与する大掛かりなプロジェクトでした。
米国側の希望もあり、渋沢栄一渡米メンバー選定を引き受け、自らも参加することとなりました。栄一は渡米を決めた経緯と当時の心境を6月24日の竜門社評議員会で次のように語っています。

[前略] 是非貴下に行つて欲しいと云ふことを、嘗て外務大臣から内意がございまして、続いて次官からも会ふ度毎勧められました、又東京商業会議所は、中野武営氏が昨年の行掛から自分も行きたいと思ふ、さりながら自身が一行代表者の位置に立つやうな訳になると、日本の貫目を軽くする慮があるから、出来るならば貴下を煩したいと云ふ懇篤な話もありました、私は何も勿体を附ける積りもありませぬけれども第一には言葉も出来ませぬし、又船は弱いし、年は取つて居る、何れの点から考へても、容易く承知しましたと申兼ねて、其都度に何れ考へてと、殆ど二三月経過して居りましたが、[中略] いつまでも頭立つ人が極まらぬで居つては甚だ困る、[中略] 旁々以て早く極めなければ困る、[中略] 是非私に一行の代表者に為つて呉れといふ相談を受けました、茲に至て御断りする訳にも参らず、殊に平素親しくして居る人々から斯くまで勧められるのは、誠に迷惑と思ひましたけれども辞す訳には行くまい、判然国家の関係と云へるかどうか、知りませぬが、所謂老後の御用納の覚悟を以て御引受けしませうといふことを [中略] 答へました、[中略] 私に取つては、存外責任の重き旅行をせねばならぬ場合になつたので、只其決意を致しましたといふことをお話申して置きます。(完)
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.6-8掲載、『竜門雑誌』第254号(1909.07)p.22-27「青渊先生の二大決断」より)

なお、参加の経緯は同じ『竜門雑誌』第254号巻末「本社記事」欄のp.55-56でも報告されています。

     ○青渊先生の渡米始末
[前略] 左れば渡米者の人選は最も慎重の詮議を要する次第にて、民間の当業者は勿論、其筋にても少からず注意を払ひたるものゝ如く、一行の代表者としては青渊先生こそ然るべけれとて、内々先生に交渉する所ありし由なるが、当時先生は尚ほ世務の身辺に纏綿するものあり、且つ差当り心身の健康上何等気遣はしき事あるに非ざれども、何分にも七十歳の老齢、親類縁者扨は門下生等の婆心亦棄て難きものあるのみか、一行の代表者として相応しき若手の乏しきにも非ざるべければと、口にこそ言はね左る意向もありて、其筋の幾度かの下話に確答を与へざりしものゝ如く、兎角する中に期愈々迫りて人尚ほ定まらす、或日(去六月廿一日)実業家の重なる人々商業会議所に寄り集ひて鳩首凝議の結果、一行の代表者としては気の毒ながら青渊先生を煩す外に適当の人も見当り申さずとて、高橋是清千家尊福・中野武営の三氏委員と為り、先生を兜町の事務所に訪ひて慇懃に其意を述べぬ、先生霎時熟考の後、今回の米国行予は実は迷惑を感ぜざるにも非ず、然れども太平洋沿岸諸州各商業会議所の今回の招待は、尋常一様義理一遍の友誼に出でしものに非ずして、将来の国際上に影響を及ぼすこと尠からざる節もありぬべく、且つ日本に於ける実業界の代表者とも云ふべき諸君が、熟議の上是非とも予に諾ひ呉れとの懇談、無下に断はらんも心なき業なり、最早や猶予すべきに非ず、老躯を提げて諸君の望みに副はんのみと、茲に渡米を確定するに至りし次第なりと云ふ
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.6掲載)

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