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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1906(明治39)年7月13日 (66歳) 渋沢栄一、南満州鉄道の設立委員の一員に任命される 【『渋沢栄一伝記資料』第16巻掲載】

是より先六月七日、勅令第百四十二号を以て南満洲鉄道株式会社設立の件公布あり、是日設立委員長並に設立委員八十名任命せらる。栄一その一員たり。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 1部 実業・経済 / 6章 対外事業 / 2節 支那満州 / 6款 満洲鉄道株式会社 【第16巻 p.723-724】
・『渋沢栄一伝記資料』第16巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/16.html

官報  第六八八一号 明治三九年六月八日
    ○勅令
朕南満洲鉄道株式会社ニ関スル件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム
 御名御璽
  明治三十九年六月七日
             内閣総理大臣 侯爵西園寺公望
             逓信大臣   山県伊三郎
勅令第百四十二号
第一条 政府ハ南満洲鉄道株式会社ヲ設立セシメ、満洲地方ニ於テ鉄道運輸業ヲ営マシム
第二条 会社ノ株式ハ総テ記名ト為シ、日清両国政府及日清両国人ニ限リ之ヲ所有スルコトヲ得
第三条 日本政府ハ満洲ニ於ケル鉄道其ノ附属財産及炭坑ヲ以テ其ノ出資ニ充ツルコトヲ得
  ○第四条ヨリ第十七条マデ略ス [後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第16巻p.723-724)

渋沢栄一は政府からの命により、1906(明治39)年7月13日から12月13日まで南満州鉄道設立委員を務めています。同社設立の経緯について『竜門雑誌』第220号(1906.09)p.34-35には次のように紹介されています。

○南満洲鉄道株式会社設立経過
[前略] 同会社の設立委員長は最初児玉大将なりしも、大将薨去の為め寺内陸軍大臣代りて委員長となり、八月十日を以て愈々第一回設立委員会を開き委員会に於ては政府より会社設立に関する命令書及示達書を交付し、議事規則及事務章程を議決し、次て政府の起草に係る定款草案は特別委員を選んで調査を附託することゝなり、調査結了の上之を十四日の総会に報告し、其他株式募集方法等を議定し同日を以て全く委員会を終りたり [後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第16巻p.728-729)

また、栄一は設立から5年後の1911(明治44)年、南満洲鉄道について次のように言及しています。

一〇二 銀行通信録  第五一巻第三〇三号 明治四四年一月
    明治四十四年の経済界
                   男爵 渋沢栄一
[前略] 満洲の経営に付ては幸に南満鉄道会社と云ふものが逞しい力を持つて、又其仕事も追々に挙つて行くやうである。是は頗る喜ばしいことであり其他の事業も、追々に進むで行く様に思ひます。併し私は[中略]唯々大きな力が一つで仕事をして行くと云ふことは好まない。相当の力のある者が種々なる方面から進んで行くやうになりたいと思ふ。内地の仕事もさうだが他国に対する経済上の発達も、単に何も斯も一つに集中して遣るといふことは、蓋し穏健の仕方ではあるまいと思ふ。世が進めば進む程力の強い人が沢山出来て来る。中等社会に人物の多い国が学理上最も健全の国であると聞いて居る。是は必ずさうであらうと思ふ。昔は戦争でも其団体中一番強い者同士が一騎討で勝負を決してしまふ、樋狹間で今川義元が討してしまへば四万の大兵が忽ち潰れる。双方の強者が陣頭に立つて牛の喧嘩のやうに闘つて、其主脳の人が負けると大勢が閉口してしまふ。段々文明に進めばさうはいかない、それで維新頃には豪い人物が出たけれども、近頃は余り人物が出ないと云ふ人がありますが、時代が違ひ教育が違ふから其筈である。其方が寧ろ宜いのかも知れない、伊藤公爵の様なる人物が出ないと云ふことを歎息する人もあるが、寧ろヨリ以上に立優つた人が多くなつたから特に目立たぬのであるかも知れぬ。それと同様に一つ際立つてそればかりが進むといふことは真正なる国の力の強大と云ふものでは無いと思ふ。故に私は支那に対する諸事物の施設がもう少し進むやうなる心配を政治上からも是非進めて欲しいと思ふのである。[後略]
(『渋沢栄伝記資料』別巻6 p.499,502-503)