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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1909(明治42)年8月20日 航海2日目 - 団員総会開催

渋沢栄一 日記  明治四二年         (渋沢子爵家所蔵)
八月二十日 曇 冷
午前六時半起床、船室内ニテ入浴シ、畢テ甲板上ニ出テ散歩ス、朝来炎熱堪へカタキモ、時々驟雨アリテ涼風来ル、日米ト題スル雑誌ヲ読ム、八時半朝飧ヲ食ス、後又読書シ、又ハ甲板上ヲ散歩ス、午後一時午飧ス、食後一行ヲ会シテ、各地ヨリ撰出ノ人士各相紹介シテ、一般ノ行動及挙措ニ関スル打合ヲ為ス、予ハ団長ノ資格ヲ以テ一場ノ演説ヲ為シ、且委員撰挙ノ事ヲ定ム、午後雨歇ミテ冷気頓ニ加ハリ、亦炎熱ヲ覚ヘス、午後七時夜飧、其前甲板上ヲ散歩ス、食後一行ト喫煙室ニテ談話ス、夜十一時就寝、午後二時過ヨリ雷雨頻リニ至ル
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.55掲載)


竜門雑誌 第二六一号・第一二―一八頁  明治四三年二月
    ○青渊先生渡米紀行
         随行員 増田明六記
八月二十日 金曜日 晴
青渊先生及令夫人にも、昨夜は落着きて眠られざりしと云はれたる、前夜の蒸熱は今朝に繰越され、苦熱甚し、午前七時先生と共に甲板に出でゝ運動を為す、足並を揃へてコツコツと上甲板一等客室の周囲を一巡するときは百八十歩にして、三歩一間の六十間、一町なり、之を六巡して少憩の後前八時食堂に入る
朝食後暫く甲板を運動したる後、先生は読書室に入りて読書せらる
午後二時喫煙室に於て団員の総会を催ふし、各地商業会議所会頭より其地の団員及随行員を紹介したり、原林之助氏中野会頭の声に応じて起立し、之れでも立つて居るなれば御承知を請ふと云はれたるは、頗る振つたる挨拶なりし、右終りて団長たる青渊先生議長となり、一行は日本実業家代表者なれば各自責任を重んじて、一言一句、一挙一動共に慎まざるべからざるは勿論、全員一致の行動を取ること必要なれば、此際委員を設けて是等に注意するの必要あらんかと提議したるに大谷嘉兵衛・土居通夫氏等を始め全員之を賛し、茲に左の委員を選挙したり
 渡米実業団
  団長 青渊先生
  (青渊先生は東京出発前団長に選定せられたるものなり)
  委員長 中野武営氏
  委員 は各地商業会議所会頭協議の上定る事
大北汽船会社より、同社東洋総支配人マツクウヰリアム氏を団員渡航中一切の便宜を与ふる由にて同乗せしめられたるが、同氏の発起にて日米両国人より委員を選定し、航海中各種の競枝を行ふて愉快に此航程を過さん事に決す
此日団員の食堂に出づる服装を、特別の場合の外は黒き服なれば、必ずしもタキシートを着せざるも良き事と一決す、青渊先生は平常はモーニングにて出席のことにせられたり
午後三時、大阪枚方に在る陸軍火薬庫爆発して人畜の死傷ありとの無線電信に接す、即刻青渊先生より第四師団長へ見舞の電信を発せられたり
晩餐後喫煙室は先生を中心として談話湧くが如し
此日午後より涼風吹き、加ふるに海上平穏にして心身爽快、恰も海水浴場に在るの感あり
航程正午(十九日午後三時より)二百八十哩、位置北緯三十七度七分・東経百四十三度五分、風向南西
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.67-68掲載)


渡米実業団誌 同団残務整理委員編
  第七五―八六頁 明治四三年一〇月刊
  ○第一編 本記
     第二章 渡航日誌
八月二十日(金)曇時々驟雨
中食後総員喫煙室に集合し、各商業会議所会頭、各地の正賓・専門家及び随員を互に相紹介し、後団長の指名にて、中野武営・土居通夫・西村治兵衛・松方幸次郎・大谷嘉兵衛・上遠野富之助・日比谷平左衛門・佐竹作太郎・岩原謙三・根津嘉一郎・中橋徳五郎・大井卜新・西池成義・左右田金作・伊藤守松・田村新吉等の諸氏を委員に選定せり。
大北汽船会社の東洋総支配人マクウイリアムス氏本船に同乗し渡航中一切の便宜を謀る由を告ぐ。尚同氏の発起にて、同乗の日米人間より委員を選出し、渡航中各種の競技を行ふことに決す。即ち一行中よりは高辻・名取・加藤三氏委員に選まる。尚右に付各有志より醵金して、之に対する賞品を購入す。
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.78掲載)

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