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 1909(明治42)年8月19日 航海初日 - 船内の様子と日課

ミネソタ号の出帆(1909.08.19)
ミネソタ号の出帆(1909年8月19日)

竜門雑誌 第二六一号・第一二―一八頁  明治四三年二月
    ○青渊先生渡米紀行
         随行員 増田明六記
名残の万歳がまだ耳の奥に響く様に思はれるが、船は已に港外に出でたれは、青渊先生及令夫人には船室に入りて軽装に更め、再び甲板に出でゝ涼を取られたり、此日は炎熱焼くが如く、加ふるに新橋・横浜の両停車場は勿論、船中に於ても見送人の雑沓甚しかりしかば、其暑さ云はん方なし、此上船上にて蒸されてはと気遣ひしが、幸ひ南風徐ろに来り、船の南行と共に涼風襟を披き、大に愉快を感じたるも束の間にて、東京湾の口を出で稍々方向を転ずると、今迄の向ひ風は追手と変じ、又も苦熱を感ずるに至つた、今が今横浜を立つ迄、種々雑多の要事や人の応接も、今は悉皆絶無して、急に閑散の身となりたると共に、出立前迄漲り詰めたる気力が急に弛みて、暫く何事も手に付かす茫乎として居る内に、晩餐の時刻に近づいた、食卓は青渊先生の注意を以て、一行の卓子は他のと別にされた、蓋し食事中も種々の打合せや談話等を差支なく為し得る様にとの事からで、他に何の理由も無いのである
一体食卓には「タキシート」を着用する様にとて、一行凡て出立前用意した事であるが、今日は乗船の日で行李等も十分解く遑が無いからとて、皆平服のまゝで出席したが、見渡せば西洋人も皆略服であつた[、] 「メヌー」にある料理の名前が読めぬ為に、第一の料理から順次に指したら良いだらうと思ふて、三四種もあるスープを皆取寄せたと云ふ滑稽の談を聞きし事ありしが、一行食卓給仕の内に紋付羽織袴の日本人と外二名の日本人ありしかば、食事の注文には何等不便を感ずるもの無かりし、聞けば是等日本人は大北汽船会社が一行の為に特に乗組ましめたとの事である、其他のボーイは皆広東辺の支那人なり、是は賃銀の安き為なりと云ふ
午後九時横浜商業会議所及中外商業新報より、青渊先生宛に一行の健康と航海の安全を祈るとの無線電信に接した、即ち先生より感謝の答電を発せられたり
食事後先生及令夫人には甲板上を散歩せられたるが、先生には更に喫煙室に至りて、一行談話の中心と為りて、午後十一時迄を談笑の間に費されたり
平常寸暇も無く、特に出発前殆と昼夜絶へざる公私の要務に忙殺せられ、其上送別会にて苦しめられたる青渊先生も、此日よりは信書の往復も無く、電話の送答も無く、来客も無ければ訪客の必要も無き次第となられしが、胸中嘸ぞノーノーせられたるならんと察せられたり、海上至て平穏なりしが、夜間の炎暑は日中を凌ぐ程にて、容易く眠ること能はず、夢現つゝの間に夜を徹したり、翌朝船員に聞けば室内は百十度なりしと云ふ、青渊先生が横浜出帆に臨み賦せられたる一詩を左に録す
  愛此清風一味真  嗤他満地幾紅塵
  城中昨夜趁涼客  翻作雲濤万里人
茲に船中にて毎日繰り返す日課を述れば左の通り
浴室を有する船客は、何時にても欲する時入浴を為し得らるれど、其他のものは幾人かにて一の浴場を使用するのである、其入浴順は湯番のボーイが御客の命ずる時刻を適当に按排して定むるので、大抵朝食前に限られてある、故に朝は此ボーイに呼び起さるゝ迄は寐て居ても、朝食の時刻に後るゝ気遣は無い、朝寐の人には不都合なり、ソコデ朝入浴の準備出来たと知らさるれば、寐床を出て歯を磨き口を嗽ぎ、直に湯室に赴く、湯は海水で温熱自在に旋に依りて加減することを得、別に淡水(所謂上り湯)は桶に在り、石鹸とタオルもチヤント備へられてある、浴し了りて船室に帰れば、室附きのボーイは已に寐床を奇麗に片付け、靴を磨き紅茶(又は珈琲)に砂糖にミルクと、バタを付けて焼いたパンを運び置いてある
夫れから髭を剃り(外人の男子には、腮髭を伸ばした客は一人もない、又之を伸ばし放しで構はぬのは甚だ不潔だと云ふのである)頭髪を梳り、奇麗のホワイトシヤツと、塵を払た折目正しきズボン・チヨツキ・上衣を着用に及んで甲板に出づる迄には、ドウシテモ一時間を要す
甲板上にて運動しつゝ新鮮の空気を呼吸して居る内に、朝食準備の鑼が鳴り、三十分を経て食卓開始の鑼が又鳴り廻る
食堂に入り定まりたる卓席に就けば、毎食のメヌーは印刷して卓上に備へられてある、メヌーに書いてある料理には番号が附してあつて、其番号を云へば其料理をボーイが持参して来る、料理は何んでも好むものを取り寄せるのであるが、健啖家は第一号から終りまで食つても差支ないのである
朝食が午前八時半で、昼食が午後一時、晩食が午後七時半である
昼食も三十分前に食卓準備の鑼が鳴る、本当なれば夫れから朝と同じ様に、顔手を洗ひ、髪を梳り、服の塵を払ふて居ると開始の鑼が響くと云ふ順序なれども、日本人は其様な事は仕ない
昼食後先づ往て見んとするものは、日々階段の上に掲示せらるゝ其日の正午に於ける船の地点である、天候・位置・航程・風向総て是で明了である
お茶の時、是は毎日午後三時半食堂に於て開かるゝので、紅茶と砂糖とミルクの外に、塩煎餅・カステーラ等の菓子が用意されてある[、] 時々番茶が出て来るが其昧格別である
食堂に入る時の服装は、朝と昼との両度は詰襟・白服・縞服・無地の服等様々、又靴も赤・白・黒何れにても少しも差支無いが、晩食は左様はいかない、外国人は先づ髭を剃り髪を整ひ、タキシートを着用し、婦人も御作りを為し、礼装に更める、是が本式であるけれども、無頓着な日本人は遑があつても面倒臭がりて、船室内でチヨット髪を櫛けづる位が最上で、服も漸く上衣丈黒服に着換ゆる位が関の山で、コツコツと出掛けて行く(一行は外国人とは別に食卓を囲んであるから、是れでも少しも差支は無かつたのである)午後七時晩食準備の鑼が船内を鳴り廻る、やがて七時半ゾロゾロ食堂に進入して食卓に就く、晩食のメヌーは朝や昼とは違つて、料理の数も二十種位ありて一番御馳走が有る、其内で好むものを命ず
三食共食事は船賃の内に包含されてあるけれど、飲料は別だ、欲するものはボーイに之を命ずれば、直に持て来る、即ち之を伝票に記して遣れば、後に代価を請求に来る
序に船内各種の設備を述べ置かん
晩食後より十一二時迄は大抵茲処で費すのである、喫煙室には十数個の卓が配置されて居て、其上に碁盤・将棋盤・西洋将棋、其他内外の各種遊戯の具がある、又傍に酒舗バーありて、各種の飲料煙草を販売して居る
読書室には備付の各種書冊があり、又信書用紙・封筒・インキ・ペン等が用意されて在る、中々立派のものなり、一行の中には茲処は静かで良いとて、読みに来た序に寝て帰る人もある
理髪床は外国人が従事して居て、髭剃りが二十五仙(我五十銭)、刈込(髭剃らずに)七十五仙(我一円五十銭)なり、日本の如く髪を刈り髭を剃り、而して髪を洗ひ油を附ければ、夫れこそ一弗五十仙は是非掛るなり、此処にて一寸した日用品は購ふ事を得れども、何分高価にて買ふ気になれず
次に客室(一等室凡て二人入りなり)を一寸紹介すれば、室内広さは九尺四方位、一方には寝台が上と下と二個あり、下の寝台の下は一尺五寸位あれば、大概のものは之に押し込むを得るなり、其反対の側に三尺程の腰掛が出来しありて、外に洋服其他雑品を容る戸棚あり、化粧鏡・洗面器等奇麗に邪魔にならぬ様装置しあり、又電灯は天井の真ン中に一つと各寝台に一つづゝ備付けられ、呼鈴は寝て居て手の届く処にある、仮令数十日を此一室に蟄居しても格別苦労にならぬ感じがする、実に結構至極なり
(『渋沢栄一伝記資料』第32巻p.64-67掲載)

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