情報資源センター・ブログ

情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 1931(昭和6)年8月24日 (91歳) 渋沢栄一、中華民国水災同情会の会長となる 【『渋沢栄一伝記資料』第40巻掲載】

是年七・八月両月に亘り中華民国に洪水あり、惨害甚しく饑民一千万人と称せらる。栄一等相謀り、是日、当会を設立し、栄一会長となる。次いで九月六日、栄一飛鳥山邸の病床よりラジオを通じて義捐金募集の演説を放送す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 3章 国際親善 / 6節 国際災害援助 / 8款 中華民国水災同情会 【第40巻 p.72-96】
・『渋沢栄一伝記資料』第40巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/40.html

1931(昭和6)年の夏、中華民国は集中豪雨のため広範囲にわたり洪水に見舞われ、特に揚子江沿岸の湖北、湖南、江西、安徽、江蘇の5省では日本の国土とほぼ同等の面積が水没、未曾有の大水害となりました。
この頃、渋沢栄一大腸狭窄のため病床にありましたが、郷誠之助(ごう・せいのすけ、1865-1942。実業家)らとともに中華民国水災同情会を設立、会長となって9月6日にはラジオ放送で全国に義捐金募集をよびかけています。
また、その3日後の9月9日、栄一は中華民国の水害と日中関係について次のような談話を残しています。

竜門雑誌 第五一六号・第一―七頁 昭和六年九月
    中華民国の水害と日支の経済提携
                      青渊先生
 支那に対しては、年古くから相当な考へを持ち、いろいろの事柄にも接して来たが、総て意の如くならず、今日に於ても尚ほ順序立たない有様である。今回の水害に対しても非常に気の毒に感じ、九十二歳の老躯而も病中であるにも拘らず、中華民国水災同情会の会長といふ名を戴いて居る関係から、去る六日の夜マイクロホンを此の応接室に据付けてもらつて、ラヂオにより全日本の国民に訴へたのである。即ち『中華民国の水害の範囲は恰度日本の本土の広さに及び、その罹災の人口は一千万人といふ甚だしさである、故にこれを救ふことは人類としての義務であつて、大正十二年の震災に我国が多大の救助を受けたその返礼をすると云ふやうな意味でなく、人道の大義からまた隣邦に対する友誼からさうしなければならぬ、自分が老人のくせに皆さんに呼びかけるのは総て右の如き意味からである』と云ふ要旨を三十分ばかり話したのである。これに依つて我が国民が一人でも多く、民国のこの天災に同情を寄せるならば、その放送の目的は達せられる訳である。
 偖て私は特に深い学問をしたのではないが、少年の頃から学んだことは悉く支那伝来の学問であつて、尭舜の教へにしても、孔孟の道にしても皆さうであつた。日本は支那に何くれとなく学んだのであつて単に道義上のみならず、知識に於ても、その昔から支那は日本の先進国であつた。されば為政者の地位にある人も国民も共々に、従来その好しと考へられる点は取入れて、聊かも恥とするに及ばなかつた、のみならず出来るだけこれに学ぶと云ふ風であつたのである。
 然るに明治以後に於ける我国各方面の発展は漸く支那を師とするに及ばぬやうになり、寧ろ競争的な状態に置かれるに到つたから、私なども両国間のことを心配して居た処、遂に明治二十七年日支間に戦端を開くが如き不祥事を出現する結果となつた。誠に孔孟の教を奉ずる両国が相争ふに及んだことには、いろいろな事情もあつたのであるが、一方が間違つて進めば、どうしても終極の手段として力を持つて争はなければならなくなる。故に孔夫子の教を奉ずる私としては二十七・八年戦争で日本が大勝利を得ることが、広く人類の徳義上から、また日本人の精神上の将来のためによいかどうか、疑問であるとして居た程である[。] 従つて例の戦争直後に起つた三国干渉の如きは、勿論日本としては恥辱であるけれども、大国たる清国を相手として戦争に勝つた血気旺んな時代としては、よく忍耐する観念とならしめられた一の教訓であつた位にさへ考へたのである。その後両国の間の親善に就ては常に心掛け、屡々意見の交換を行ひ、相ともに理解する工風をつけたいものであると思つて居た。そしてどうしても両国の経済関係を一部の人々の働きにまかせて置くと、相競ふことになり、結局に於て相争ふやうなことにならぬとも図られないから、何処までも人道上から相互ひに相当の考慮を常に払つて、衝突までに到らないでするやうにしなければならぬと考へて居た。
[中略]
 要するに両国民同志の利害が相等しくならねば、真の経済提携は困難であらう。但し申し方は頗る古いが、同文同人種の国柄として、日支の利害は同一である筈であるのに、左様に思慮しない処に誤つた考へがあると思はれる、故に今回の水害の如きには何処までも同情して救援に赴かねばならぬのである。    (九月九日談話)
(『渋沢栄一伝記資料』第40巻p.79-82掲載)

参考:渋沢栄一晩年の慈善活動
〔文春写真館 あのとき、この一枚 - 文藝春秋
http://www.bunshun.co.jp/photo_column/pic/shibusawa.html
1931(昭和6)年9月6日、義捐金募集のため飛鳥山の渋沢邸でラジオ放送を行った際の写真が掲載されています。

更新履歴

2015.08.07:エントリーのタイトルを修正(水害→水災)