是より先明治十一年、栄一飛鳥山に土地を購ひ、別荘を設け、専ら招宴・接客に充て来りしが、三十一年五月に至り家屋改築に着手、三十三年十二月落成、是日を以て兜町より移転す。以後栄一専ら当邸に起居し、兜町邸は渋沢事務所専用となす。
出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 3部 身辺 / 8章 住宅 【第29巻 p.618-622】
渋沢栄一 日記 明治三四年 (渋沢子爵家所蔵)
五月十日 曇午後雨
○上略 午後四時王子別荘ニ抵ル、蓋シ同所ノ新築漸ク落成セシヲ以テ、今日ヲ卜シテ移転スルヲ以テナリ。尾高幸五郎・岩永尚作等ト共ニ室内及庭園ヲ巡視ス。雨中ノ新樹最モ佳絶ナリ
(『渋沢栄一伝記資料』第29巻 p.619)
1901(明治34)年5月10日、渋沢栄一は兜町の邸宅からそれまで別荘としていた王子の飛鳥山邸へ移転、以後飛鳥山を起居の場としています。(『渋沢栄一伝記資料』第29巻 p.619参照)
- 1877(明治10)年………王子に地所の購入を検討
- 1878(明治11)年………王子の地所を購入、建築開始
- 1879(明治12)年………グラント将軍招宴
これ以降、貴賓を招いての招宴、接客で使用 - 1898(明治31)年………改築工事開始
- 1900(明治33)年………改築工事完了
- 1901(明治34)年………兜町邸から王子・飛鳥山邸に居を移す
『渋沢栄一伝記資料』第29巻p.618-619には穂積歌子(ほづみ・うたこ、1863-1932。栄一長女)による『はゝその落葉』(竜門社, 1900)からの再録として土地購入から別荘として活用していた当時のことが、p.622には白石喜太郎(しらいし・きたろう、1888-1945。第一銀行から渋沢事務所に転出。栄一秘書役)による『渋沢栄一翁』(刀江書院, 1933)から移転に至る経緯などがそれぞれ以下のように紹介されています。
はゝその落葉 穂積歌子著 改訂版・第四〇頁 昭和五年一〇月刊
○上略
明治十一年の春頃、飛鳥山の隣地西ケ原に、畑地で眺望のよい土地が有つたのを購うて、別荘を設けられた。建築は清水組で、庭園は佐佐木可村といふ人が設計して作つたのである。一ケ年程かゝつて家も庭も工事を終り、花の朝、月の夕、風情の多い所になつた。私共は此別荘が出来て始めて、常に憧れて居た自然の風物に親しむことが出来たのである。
然し父上も母上も、此別荘に留つて長閑に日を暮されることは至つて稀れで、常に父上が実業を盛んに為やうとして多くの人と交際されるから、その方面の人達をこゝに迎へて、相談所ともし、又宴会場にも宛て、いよいよ親しみを厚くされ、又は司られる銀行会社等の人々の日頃の労を慰め様とて、折々多数の客を招待して饗応なされる場所に用ひられた。
○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第29巻p.618-619)
渋沢栄一翁 白石喜太郎著 第四二九―四三〇頁 昭和八年一二月刊
○第二篇「春」
五、家庭
○上略
子爵が兜町邸に移り住んで後数年にして、第一銀行改築の議が起つた。改築と言うても新築に等しい大工事であつた。其間をつなぐべき仮営業所の必要があり、之に就て銀行の人々が頻りに苦慮したことがあつた。此時子爵は兜町邸を使用せんことを提議し、自身は飛鳥山邸に移り住むべき旨を附言した。之を聞いた佐々木勇之助氏始め、銀行の幹部は大に恐縮し、切に辞退したので、此事は実現するに至らなかつたけれども、後に至つて飛鳥山邸への移転は行はれた。兜町附近が漸次旧来の面目を改め、厳密の意味で左様でないまでも、漸くビズネス・センターらしい趣を呈し、雑閙喧噪を加へたのと、子爵の招宴が次第に頻繁となり、且接客の方法漸く変化し、園遊会の数多くなるに及び飛鳥山邸を使用すること繁く、寧ろ同邸に起臥すること便利なるに至り、遂に飛鳥山邸を住宅にし、兜町邸は事務所にすることになつた。実に明治三十四年であつた。
(『渋沢栄一伝記資料』第29巻p.622)
なお、この日の栄一の日記に登場する尾高幸五郎(おだか・こうごろう、1843-1925)とは、1882(明治15)年に栄一の依頼によって上京、千代夫人他界後の渋沢家の家政を任され、後に磐城炭礦監査役取締役、渋沢倉庫監査役も歴任した人物です。また岩永尚作は「明治二四年以来渋沢家執筆として深川邸・兜町邸を経て飛鳥山邸に勤務したが、老齢を理由に同三六年八月退職した」人物でした。(以上『渋沢栄一伝記資料』別巻4 p.603,605より)
参考:企画展図録『王子・滝野川と渋沢栄一 : 住まい、公の場、地域』(渋沢史料館, 2008.3)
〔渋沢栄一記念財団 渋沢史料館 / ミュージアムショップのご案内〕
http://www.shibusawa.or.jp/museum/store/siryokan17.html