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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1909(明治42)年6月7日(月) (69歳) 渋沢栄一、東京慈恵会第2回総会で会計報告を行う 【『渋沢栄一伝記資料』第31巻掲載】

是日、当会第二回総会開催せられ、栄一副会長として之に出席し会計報告をなす。爾後昭和五年に至る間、大正九年・同十四年・昭和三年を除く外毎回出席す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 1章 社会事業 / 4節 保健団体及ビ医療施設 / 1款 社団法人東京慈恵会 【第31巻 p.5-26】

東京慈恵会とは、1882(明治15)年に高木兼寛(たかぎ・かねひろ、1849-1920。海軍軍医)が発足させた慈善病院有志共立東京病院を源流とする団体です。
1887(明治20)年、有志共立東京病院は東京慈恵医院と改称、さらに1907(明治40)年7月の改組により社団法人東京慈恵会となりました。それにより東京慈恵医院、東京慈恵医院附属専門学校、東京慈恵医院附属看護婦教育所は、それぞれ東京慈恵会医院、東京慈恵会附属専門学校、東京慈恵会看護婦教育所となりました。
総裁には有栖川宮威仁親王妃慰子殿下(ありすがわのみや・たけひとしんのうひ・やすこ、1864‐1923)、会長には徳川家達(とくがわ・いえさと、1863-1940)が就任、渋沢栄一は理事・副会長の辞令を受け、財務主任として同会経営に尽力しています。

東京慈恵会総裁威仁親王妃慰子殿下御事蹟 東京慈恵会
                   第七一―七六頁 大正一五年六月刊
    其五 総裁慰子殿下と東京慈恵会
 総裁慰子殿下以下の非常なる努力に由りて、東京慈恵医院はその組織を改め、明治四十年七月十九日、社団法人東京慈恵会の設立を見るに至れり。その定款の初めに「東京慈恵医院は明治十五年の創立に係る施療病院にして、皇后陛下慈仁の懿旨を奉じ、陛下の至高至貴なる眷護の下に其事業を経営すること玆に年あり。今や時勢の進運は、其規模の拡張を促すに至れるを以て、其会員の組織を改めて東京慈恵会を設立し、之を社団法人と為し、倍々其基礎を永遠に鞏固ならしめんことを企図し」とあるは、本会設立の要旨を、最も簡明に述べたるものなり。次に本会の目的を明かにして「本会は貧困にして医薬を得る資力無き病者に施療する」ところなるを述べたり。本会はこの目的を達するために、施療病院を置きて之を東京慈恵会医院と称し、更に附属医学専門学校及び附属看護婦教育所を置きて医員並に看護婦の養成をなすこととせり。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第24巻p.560-561)

渋沢栄一伝記資料』別巻第5 p.689-691には、渋沢栄一が晩年に慈恵会について語った内容が、『雨夜譚会談話筆記』の再録として次のように紹介されています。

    雨夜譚会 第二十六回
  第二十六回雨夜譚会は、昭和四年十月二十九日午後四時より渋沢事務所に於て催さる。出席者青渊先生、篤二氏、敬三氏、白石氏佐治氏、高田氏、係員岡田、泉。
[中略]
    三、東京慈恵会に御尽力ありしに就て
先生。 東京慈恵会は最初の名は何とか云つたよ。
篤二。 東京慈恵医院だつたと思ひます(註、東京慈恵会発行の書籍「東京慈恵会総裁威仁親王妃慰子殿下御事蹟」によれば、明治十五年八月二日、高木兼寛男創立の時の名称を有志共立東京病院と云ひ明治二十年四月一日、東京慈恵医院と改称さる)」
先生。 何時だつたか(註、明治二十年十月の事なり)私は鹿鳴館に聘ばれて行つて、東京慈恵医院に七百円か寄附させられた事がある。其時私が滅多にあんな所へ行くものではないと冗談云つたのを覚えてゐる。其頃は専ら高木兼寛氏が経営の任に当り、全く高木氏の個人病院のやうに思はれて、世間でも広く知らなかつた。それからずつと後で、明治四十年前後の事と思ふ、当時、東京慈恵医院の幹事長をしておいでになつた有栖川宮妃慰子殿下が、洋行なさつて先方の有様を御覧になり、東京慈恵医院の見すぼらしい事を深く御感じ遊ばされた。そこで松方公、井上侯の二人に、東京慈恵医院拡張の御考に就て御沙汰があつた。けれども時恰も日露戦後で、実業界も沈衰してゐる有様だつたので、両人より、此際一般から寄附を御求めになる事は困難であるからと云つてお止め申したのである。然し妃殿下には、東京慈恵医院が外国に比してあまり見つともないと思召しになつたので、或る日突然穂積の歌子と阪谷の琴子とを御召しになつた。そこで両人が参上して見ると、「実は東京慈恵医院拡張の事に就て渋沢の力添を望んでゐる、それで直接渋沢本人に会つて意向を聴いてもよいと思つたが、或は渋沢に具合が悪い事がありはすまいかと思ふので、お前方に依頼するのであるから、お前方から私の考を伝へて呉れまいか」と、内々御沙汰があつたさうである。私は両人から殿下の御言葉を承つて、「兎に角殿下から御沙汰があれば何時でも罷り出ます。けれども経済界の現状がこんな具合で御座いますから、畏い事であるが、殿下の御満足の行くやうな御返答を申上げ得るかどうか懸念致して居ります」と、両人を通じて申上げた。すると御召しがあつたので伺つて見ると、威仁親王殿下と妃殿下とが御揃ひで懇切に種々御話があつた。お話の筋は要するに、「此事に就ては皇后陛下も御心配遊ばされておいでである。東京慈恵医院は現状の儘では高木個人のもののやうであるが、これでは困る。何とかして一般的のものにしたい。それに就ては、既に松方、井上の両人にも話して見たところ、両人から、時機が悪いから困難だ、拡張してはいけないとは云はぬが、やりかけてうまく行かない時に困るだらう、それにしても一応渋沢らの意向を聴いて見たらよからうとの事で、実はお前を呼んだ訳である。だからお前の意見を腹蔵なく話して貰ひたい。経営法を改良するとしたらどうすればよいか、その方法に就ての考もあるであらう」との御言葉であつた。それで私から「現在は困難な立場にありますが、やつてやれない事はございますまい。やるとなれば重立つた実業界の人々に援助を頼まねばなりますまい」と申上げた。そこで麴町三年町の宮家へ各方面の重立つた人々を御召しになり、妃殿下御自身で東京慈恵医院拡張の御趣旨をお述べになつた。前に妃殿下が私をお召になり、どんな事を述べたらよいかとの事であつたから、それはこんな具合にお話になつたらよろしうございませうと私が演説口調に御話申すと、賢いお方でよくお呑込になつて、なかなか上手に御演説なさつた。あとで威仁親王が妃殿下に「お前は演説遣ひになつたネ」と御冗談仰せられたので、妃殿下は「あれは渋沢が智慧をつけて呉れたからでございます」とお笑ひになつたと云ふ事であつた。
 最近では慈恵会の経営はさう大してうまく行つてゐるとは思へぬ。それに大正十二年の大震災で病院全部焼失してしまつた。病院の建設には相当の金が必要である。現在慈恵会の資産は百万円ばかりある。けれどもこれは基本金として保存して置かなければならないので、外から建築資金を借りる事になつて、逓信省と第一銀行から融通して貰つた。何でも第一銀行からは三十五万円借りたと思ふ。其後建築の方は着手してゐるが其費用は八十七万円とか聞いてゐる。新しく建つたら定めし気持のよい病院が出来るだらう。先日慈恵会の寄附金の事に就て、森村、近藤、大倉などの若い男爵連中と寄合つて協議した。それから蜂須賀侯、鍋島侯がよく世話して呉れてゐるやうだ。
   ○参照――本資料 [中略] 第二四巻所収「東京慈恵会」(第五三六頁)。
(『渋沢栄一伝記資料』別巻第5 p.689-691)

参考:源流 ―貧しい病者を救うために―
〔学校法人 慈恵大学
http://www.jikei.ac.jp/jikei/history_1.html
東京慈恵会渋沢栄一 / 松田誠 (『高木兼寛の医学 : 東京慈恵会医科大学の源流 』(東京慈恵会医科大学, 2007.12)p.787-812)
東京慈恵会医科大学 学術リポジトリ
http://ir.jikei.ac.jp/handle/10328/3457