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 1879(明治12)年8月25日(月) (39歳) 渋沢栄一、明治天皇臨幸によるグラント将軍歓迎会で、御臨幸委員総代を務める 【『渋沢栄一伝記資料』第25巻掲載】

是日、東京府民は上野公園に明治天皇の臨幸を仰ぎ、又グラント将軍夫妻を招請す。栄一御臨幸委員総代として斡旋す。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 2部 社会公共事業 / 2章 国際親善 / 3節 外賓接待 / 1款 アメリカ前大統領グラント将軍夫妻歓迎 【第25巻 p.507-537】

第18代アメリカ大統領ユリシーズ・シンプソン・グラント(グラント将軍)(Ulysses Simpson Grant、1822-1885)は、大統領の任期を終えた後に世界漫遊の旅に出て、1879(明治12)年には日本にも立ち寄りました。東京商業会議所会頭を務めていた渋沢栄一は、東京接待委員総代の一人としてグラント将軍の入京にあたっては新橋駅で出迎え、また飛鳥山自邸で歓迎の午餐会を開催し、8月25日の上野公園における歓迎会では御臨幸委員総代を務めています。
渋沢栄一伝記資料』第25巻p.507-508には、この歓迎会開催について渋沢栄一が晩年に語った談話が「雨夜譚会談話筆記」からの再録として次のように紹介されています。

雨夜譚会談話筆記 下・第八七三―八七六頁 昭和二年一一月―五年七月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第三十一回 昭和五年七月八日 於丸ノ内仲二十八号館内渋沢事務所
    四、御立腹の有無に就て
○上略
先生「 ○中略 その次に、グラントが天子様と御会見出来るやうにしようと、今度は上野公園に種々な催し物をして陛下の御臨幸を願ふ事にした。此時は私が井上さんや伊藤さんに骨折つて、陛下も御臨幸になると云ふ事になつた。すると生憎コレラがはやり出して来た。岩倉さんだつたと思ふが、流行病を口実に、陛下の出御をお取り止めになるやうにと云ひ出した為めに、御臨幸を戴くことがあやしくなりかけた。私はあんまりくやしかつたから、楠本府知事に『折角府民は御臨幸を願ふ事になつて喜んでゐる際、突然御取り止めとなつては、我々間に立つて斡旋してゐる者の面目が立たぬ』と心から悲しんだら、楠本府知事は涙を浮べて『さう云はれると、穴へでも這入りたい気持になる。心配しなくてもいゝ、私の目の黒い間はどうかして君等の顔が立つやうにするから……』と頻りに奔走して呉れて私達の望も叶つて、御臨幸になつた次第であるが、実際其時は、如何にも政府当路者のやり口が官僚式で、恩にかけるやうな素振に思へてくやしかつた」
敬「府民として歓迎するやうになつたのは、全くお祖父様方のお力でございますネ、殊にグラントの来朝を実業界と関係をおつけになつたのは、お祖父様の御尽力によると思ひます」
先生「歓迎費用として三万円ばかり募つたが、当時の三万円だから可成りの額だヨ」
敬「お話を伺ひますと、其時おやりになつた事は、既に官尊民卑打破と云ふ事に合する訳でございますネ」
篤「私は穂積の夫人((原註)、歌子母堂)から聞いた話でございますが、子爵や福地さんらがグラント将軍を府民として歓迎なさる計画に反対する連中が「グラントを府民が歓迎しようと云ふのは、輿論輿論だと渋沢らは頻りに云ふけれども、あれは二・三の者の説で決して輿論ではない」と云ひ立てました、処が愈々グラント将軍が新橋に着く日になると、戸毎に旗や提灯を出してこれを歓迎したさうで、これを見た穂積の夫人は大変嬉しかつたと云ふ事でございます」
佐治「私はこんな事を読みました。グラント将軍を歓迎するに就きましては、福地さんの関係から、東京日日新聞が記事を載せたり、種種肩を持ちましたところが、報知新聞が頻りに反対して、陛下の上野御臨幸に対しても「グラントと一緒の日に陛下の出御を仰ぐことはいけない。日を別にしなければいけない」と論じ立てたさうでございます」
篤「思ひますに、あの時代だつたから、却つて上野御臨幸を仰ぐことも出来ました訳で、それから少し後では出来なかつたかも知れませんネ」 ○下略
   ○此回ノ出席者ハ、栄一・渋沢篤二・同敬三・渡辺得男・小畑久五郎・佐治祐吉・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。
(『渋沢栄一伝記資料』第25巻p.507-508)

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