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公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
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 1877(明治10)年12月27日(木) (37歳) 渋沢栄一、東京商法会議所設立を東京府知事に請願 【『渋沢栄一伝記資料』第17巻掲載】

是より先内務卿伊藤博文・大蔵卿大隈重信東京府下に商工業者団体の無きを憂ひ栄一等に商法会議所の設立を勧誘す。是に於て栄一、益田孝・福地源一郎・大倉喜八郎等と共に東京商法会議所を設立せんとし、是日其旨を東京府知事楠本正隆に請願す。十一年三月十二日に認可せらる。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 1部 実業・経済 / 7章 経済団体及ビ民間諸会 / 1節 商業会議所 / 1款 東京商法会議所 【第17巻 p.5-19】

京商法会議所とは、「商工人ノ会集ニシテ其会員ノ利益ヲ議シ其都市ノ便宜ヲ図リ、而シテ其都市会員ノ営業商売ニ普及スルノ利便ヲ振起セシムルカ為同志ノ者相会スル所ノ一社」(『渋沢栄一伝記資料』第17巻p.11掲載「商法会議所要覧」より)です。1877(明治10)年12月27日、渋沢栄一東京府下の実業家は商法会議所設立を東京府知事に請願、1878(明治11)年3月12日に認可を受け、1878(明治11)年8月1日に第1回集会を開催しています。栄一はこの第1回集会より1883(明治16)年10月の解散まで同会会頭を務めています。
京商法会議所は、1883(明治16)年に東京商工会に、1890(明治23)年には東京商業会議所に継承され、1927(昭和2)年4月の商工会議所法公布を受けて1928(昭和3)年に東京商工会議所となりました。
渋沢栄一伝記資料』第17巻p.12-15には、1926(大正15)年に栄一が語った商業会議所設立の経緯が『竜門雑誌』からの転載として次のように紹介されています。

竜門雑誌  第四五一号・第一―五頁 大正一五年四月
    商業会議所に就て(青淵先生)
[前略] 私は商業会議所 [中略] の創立せられた明治十一年から同三十九年まで、二十八年間会頭を勤めたから、以前は深い関係があつたと云ふて差閊ない。さう云ふ事情にあるので、此処に東京商業会議所が如何に変遷して今日に到つたかに就て又之に関する私の感想を概略述べることにしやうと思ふ。
 抑も [そもそも] 商業会議所は西洋諸国ではチエムバー・オブ・コムマースと称し商人団体の総代たる人々が会議し、会議の結果一致した意見を発表する機関として生れたのである。[中略] 明治の初年には政治上、議会の必要は説かれて居たが、商業会議所の方は未だ論ぜらるゝまでに到つて居なかつた。処が偶然東京商業会議所が創設せられるやうになつた。其事情は斯様である。
 当時の英国公使はシルパルヂー・パークスと云ふ親切であるが、然し一面意地の悪い人であつた。パークスは伊藤公や大隈侯などゝ親しく往来して居たが、当時は国権常道論が喧しく唱導せられた時分であつたから、大隈侯なども親密であつたオリエンタル・バンクに居たカーレルと云ふ人などによく英国に於ける外交のこと、商人のことなどを聞き、色々の刺戟を受けて居たので、外務当局でない者も条約改正に関する議論をすると云ふやうな有様でパークス等とは其の正式交渉を為して居たのであつた。[中略]
 私は銀行業者であつたけれど、前々からの関係で大隈侯とは常に親密に心安く往き来して居たが、明治十一年であつたかと思ふが、突然侯から商法会議所、今日の所謂商業会議所を作りたいと思ふがどうしたらよからうか、と相談があつた。恰度英米などにはチエムバー・オブ・コムマースと云ふものがあつて国家の法律に依らず、一般商人の申合せで団体組織を為して事実立派にやつて居るから、私は充分やれると答へたのである。すると愈々やるならば政府で年千円位の補助をすると云ふことであつた。何故斯くも至急に商法会議所の設立が必要となつたかと云ふに、条約改正に当つて、我国当局者が彼の英公使パークスに交渉して『輿論が許さないから改正されたい』と云つた処、『日本に輿論があるか、商人が申立てると云ふけれども何によつて云はるゝのか、日本に多数の集合協議する仕組がないではないか、個々銘々の違つた申出では輿論ではない』との意味で、却つて反駁して来た。言葉は違ふであらうが、さう云ふ意味で論戦したことゝ想像された。
 其処で条約改正に輿論が必要である、輿論を作る場所を形式的に作らうとし、玆に商法会議所の創設となつたのであつた。私は之に対し大いに力を入れ、益田孝・大倉喜八郎・渋沢喜作・小室信夫・福地源一郎・原六郎と云ふやうな人々廿五人を仲間としてこれを創設した。[中略] これは単に商人の申合せで規約を作り、云はゞ今日の振興会と云ふやうなものと同様の機関であつた。で英国の会議所を模範として、会頭・評議員などの役員を定め、主として税目のことなどを協議し、其の経費の徴収は規則で定めず、持寄りの寄附の形式とした。然し斯くして最初には会議所も必要らしかつたけれど、後には用がないものと云ふ風になり、政府の方でも、さして重要の機関として取扱ふことをしなくなつた。又参加して居る人が代つたり、商業の種類が片寄つて銀行業者などが多くなる傾向にあつたから、今一歩面目を改め工業家も加へなければならないとして、名称も東京商工会と変更し、商人及び工業家の組合とし、其の代表機関とすることにした。これは明治十七年頃で会議所創設六七年後であつた。そしてそれが明治二十三年商業会議所条例の現れるまで続いたのである。此の商業会議所条例は、例の五法を揃へた当時出来上つたもので、益田孝さんは『法律はない方がよい』と主張し、私も同様の意見を持つて居た。又英米でも全然法律に依つて居ないので、我が国でも任意のものとして置きたかつた。実は法律に依る選挙と云ふことには幾多の欠陥があるやうである。明治十四年府会の選挙でも面白くなかつたのであつた。然るに斎藤修一郎と云ふ人が農商務次官であつた時、各地に十幾つか出来て居た商業会議所へ『会議所の組織は任意がよいか、法律に依るがよいか』と諮問した。之に対し東京では直ちに『任意がよい』と答へたが、多数の地方会議所は『法律がよい』と申出でたので、遂に法律が出来上つたである、
 以上は商業会議所の過去の沿革を、極く簡単に述べたのに過ぎないが、時勢の進行に伴つて今日までに色々の変化をして来た。東京商業会議所の如き商法会議所として生れてから五十年にもなる程で其変遷は当然とも云へる。現状は余り面白くない問題を頻出して居る模様で褒めたことでもない。[中略]
現状を見て露骨に云ふならば、一般に会議所に対して尊敬の念が薄い。私は現在議員である人々の善し悪しは云ひ度くないが、各人が自分達の会議所を本当の親切な心で愛し、誠意を以て事に当るならば、こんな風にはならぬであらうと思ふ。
 然し又会議所が斯様な結果になるのは、制度が然らしむる所もなしとは云へぬ。法律に依ることが商業会議所をして玆に到らしめる原因ではあるまいか。然し或は法律が全然なくてはやれないかも知れず法律があるから悪いと断定も出来ないけれども、私は東京商工会当時の任意のものゝ方が効果を挙げて居たと申したい。そして若し改革の積りで当時法律を適用したとすれば、其は非常な過で寧ろ改悪であつたから、思切つて昔に返すことも或は必要ではなからうかと考へる。[中略]
 斯くて東京商業会議所の将来はどうなるかと云ふことは、勿論問題である。現在事に当つて居る人々は、其の現状のみに止らず、根本的な点までも深く考究して、今後に善処する要があるであらう。
                     (四月十五日談話)
(『渋沢栄一伝記資料』第17巻p.12-15掲載)

なお『渋沢栄一伝記資料』中、東京商法会議所、東京商工会、東京商業会議所に関する主な記事は以下の巻・ページに掲載されています。

組織名称記事の年月掲載巻・ページ
京商法会議所1877年12月-1883年11月第17巻 p.5-842
京商工会1883年9月-1887年10月第18巻 p.5-643
1888年1月-1892年5月第19巻 p.5-534
京商業会議所1890年12月-1891年12月第19巻 p.535-685
1892年3月-1895年12月第20巻 p.5-696
1896年3月-1905年2月第21巻 p.5-870
1909年12月-1931年12月第56巻 p.5-170
参考:東京商工会議所の歴史
東京商工会議所
http://www.tokyo-cci.or.jp/side_m/gaiyo/rekisi.html