情報資源センター・ブログ

情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 1874(明治7)年12月2日 (34歳) 小野組閉店、古河市兵衛からの抵当 【『渋沢栄一伝記資料』第4巻掲載】

十一月二十九日、同行、小野組古河市兵衛への貸付金抵当品の儀に付紙幣頭得能良介に願書を呈出す。是日、抵当品の内秋田県下鉱山は同行に於て管理すべき旨達せらる。

出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年−四十二年 / 1部 実業・経済 / 1章 金融 / 1節 銀行 / 1款 第一国立銀行 株式会社第一銀行 【第4巻 p.132-139】
・『渋沢栄一伝記資料』第4巻目次詳細
http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/04.html

[前略] 小野組は、明治五六年頃全盛を極めて居たが、余り手広く遣り過ぎた為めに、不確実なる事業に資本が固定し、政府よりの預り金は厳重なる取立てに遭ふと云ふ訳で、明治七年には閉店しなければならぬ程の悲運に陥つた。[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第4巻p.129掲載、『古河市兵衛翁伝追録』(1926)「小野組瓦解と翁」より)

1874(明治7)年11月、三井組、島田組と並ぶ豪商であった小野組の破綻・閉店は、政財界に甚大な影響を及ぼし、渋沢栄一が総監役を務めていた第一国立銀行も倒産の危機に陥ります。実質的に三井組、小野組の専有となっていた(『渋沢栄一伝記資料』第4巻p.84)同行は、両組に無担保で巨額の融資をしていたため、栄一は小野組閉店に際して抵当物蒐集のために奔走しなければなりませんでした。
小野組で糸店を主宰していた古河市兵衛(ふるかわ・いちべえ、1832-1903)はこのときに、信用貸とはいえ事業のために借りた金なのだから、完全な手続きが無くても抵当としたのと同じ、と直ぐに正統な手続きを行うよう、自らの財産をすべて差し出しています。その当時を回想し、68歳の栄一は古河市兵衛について以下のように語っています。

[前略] 金を借りて居る、抵当が不確であつたから確実に書入れにするといふは、少しも不思議のないことである。然し斯やうな場合になればある商品でも隠匿したがるのが人情である、手続が不確であれば、それなりに誤魔化しするが世間の常である。私も其を心配して居たので、他の債権者との間に議論でも起る様なことになるのを憂へたのである。然るに古河氏が隠匿するどころか、自分から云々の抵当品を提供して書き入れを請求して来る、必ず御損をかけぬようにすると云ふ、如何にも男らしい立派な処置である。勇気ある人でなければ出来ぬことである。私は深く感心した[後略]
(『渋沢栄一伝記資料』第4巻p.127-128掲載、『竜門雑誌』第245号(1908.10)「事業的勇者の典型」より)

1874(明治7)年11月29日、第一国立銀行は古河からの抵当品を政府に報告し、その処理について指示を仰ぐ書状を提出しています。その中には、抵当の一部である秋田の鉱山について、操業休止による不利益や被雇用者の混乱を回避するためにも「労働者の給与や経営に必要な物品の供給を第一国立銀行から支援してほしい」と付記された古河の抵当証も含まれていました。
政府が第一国立銀行に対して鉱山を管理するよう通達を出したのは、願書提出から4日後の12月2日のことでした。
参考:古河市兵衛
〔近代日本人の肖像 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/324.html