会社名
株式会社読売新聞社 [Kabushiki Kaisha Yomiuri Shinbunsha]
[The_Yomiuri_Shimbun]
書誌事項
読売新聞百二十年史 / 読売新聞社編
東京 : 読売新聞社, 1994.11
686p(図版とも) ; 27cm
Title in romaji: Yomiuri Shinbun 120-nenshi
外部機関の所蔵データほか
NDL-OPAC / Webcat / 神奈川県立川崎図書館 / Worldcat 1,2 / NDL Search (β) / Webcat Plus 1,2 / Googleブックス 1,2 / 社史ウィキ
「関東大震災」に関する本文の概要 (p101-102, 104-106, 161, 242)
- 1923(大正12)年8月19日に銀座の新社屋に移転した読売新聞社は、9月1日夜に東京会館で新築落成祝賀会を催す準備を進めていた。震災で活字ケースは散乱したが社屋は倒壊しなかったので、ガリ版刷りの号外を数回発行し、特報ビラを市内の主な場所に貼りだした。夜になって類焼により新社屋は焼けおちてしまった。
- 翌2日に辛うじて残った手刷り機で号外を発行し、損害の軽微だった輪転機を修理して順次2〜6ページの新聞を出した。通常の8ページ体制に戻ったのは11月20日であった。
- 震災を境に東京新聞界の勢力地図は一変した。震災以前は東京朝日、東京日日、報知、時事、国民が五大紙と呼ばれていたが、震災後は資本力のある朝日、毎日の関西系二大紙が寡占体制を築いていった。
- 12月に起きた虎の門事件(摂政宮狙撃事件)で引責辞任した警視庁警務部長正力松太郎は、震災後低迷していた読売新聞を後藤新平の後押しで買取り社長に就任した。
- 1941(昭和16)年に読売新聞社は、やはり震災後経営不振であった報知新聞を買い取った。
- 1951(昭和26)年大洋写真工芸社の呼びかけに応じ読売新聞社では創刊号からの全紙面をマイクロフィルムに収める作業が始まった。関東大震災と東京空襲の被災で読売新聞の原紙の収集は困難で、2、3、4、6号は遂に発見できなかった。
年表にあらわれた「関東大震災、地震」関連事項
年月日 | 内容 | 年表種別 |
---|---|---|
1896(明治29)年6月15日 | 三陸大津波で死者27000余 | 一般・マスコミ |
1923(大正12)年8月19日 | 京橋区西紺屋町(現・中央区銀座3-2-1)に本社移転 | 本社 |
1923(大正12)年9月1日 | 関東大震災で本社炎上。2日付から5日付まで発行不能、6日から2ページ号外、12日から4ページの本紙発行。8ページの旧に復したのは11月20日 | 本社 |
1923(大正12)年9月1日 | 関東大震災(午前11時58分44秒M7.9。死者9万余) | 一般・マスコミ |
1978(昭和53)年6月12日 | 宮城県沖地震(M7.4)で死者28 | 一般・マスコミ |
1983(昭和58)年5月26日 | 日本海中部地震(秋田で津波を伴い死者104) | 一般・マスコミ |
1993(平成5)年7月12日 | 北海道南西沖地震で奥尻島壊滅 | 一般・マスコミ |
「社史紹介」へのリンク
- 社史紹介「よ」
〔渋沢栄一記念財団 実業史研究情報センター / 社史プロジェクト〕
http://www.shibusawa.or.jp/center/shashi/shasi_ya.html#03