情報資源センター・ブログ

情報の扉の、そのまた向こう

公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。
渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。

 「花祭」を検索すると - ことがら編

 渋沢史料館では現在企画展「祭魚洞祭」を開催中です。その関連イベントとして、10月27日(日)に中在家(なかんぜき、現・愛知県東栄町)の花祭公演を行います。「花祭」というと4月8日のお釈迦様の誕生日祝いがありますが、今回の公演は愛知県奥三河地方で毎年11月に行われるものです。奥三河の花祭は悪霊を祓いよけ、五穀豊穣などを祈る目的で鎌倉時代から伝承されてきた神事です。この「花祭」をおもしろ社史検索してみたところ、1件ヒットしましたのでご紹介します。

検索結果

年表の内容年月日『社史タイトル』
(発行所、発行年)
年表種別
第三回東宝舞踊大会 演目: 三河花祭、六段、プリンス・イゴール、ニ人三番叟、袖の露、鳥さし、雪他 ; 出演者: 東宝舞踊隊、東宝楽劇団、花柳二葉、花柳しげ、福本泰子、武原はん、藤間勘十郎、藤間勘助、西崎緑ら ; 期間: 5月31日まで1942.05.29『帝劇の五十年』(東宝、1966)主要興行年譜

検索結果からみえてくること

 ヒットしたのは『帝劇の五十年』の年表データで、1942年(昭17)の第三回東宝舞踊大会の演目にあがった「三河花祭」でした。この時は5月29日から31日までの公演でした。帝劇の演目にあがるくらいこの奥三河の「花祭」は人々の心をとらえるものがあったのでしょう。出演者を見ると「東宝舞踊隊」などとなっており、奥三河の方々が舞ったものではないようで、もしかしたら創作舞踊かもしれません。
 なお、『広辞苑』には4月と11月の「花祭」が載っていました。いつの版の『広辞苑』から載っているかわかりませんが、奥三河花祭りもお釈迦様の誕生日と同じくらい人口に膾炙していたことがわかります。『国史大辞典』を見たら、「明治末年ごろから中央に紹介されて多数の民俗学者や芸能研究者が見学調査に出かけたので有名になった」とありました。

参考リンク

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 「渋沢敬三」を検索すると - 人名団体名編

 渋沢史料館では現在、渋沢敬三没後50年企画展「祭魚洞祭」を開催中です。そこで「渋沢敬三」をおもしろ社史検索してみました。年表が29件、目次が5件、索引が8件、計42件ヒットしましたのでご紹介します。(年表データは同一会社のものを整理し21件を掲載)

検索結果からみえてくること

  • 渋沢栄一の嫡孫である渋沢敬三(しぶさわ・けいぞう、1896-1963)は、学問を志していましたが、栄一の後を継いで実業界の仕事に就きました。戦時中に政府の要請で日本銀行副総裁(後に総裁)に、戦後は大蔵大臣に就任しました。その後国際電信電話の社長を始めいくつもの会社団体に関わっています。社史の年表にはそうした敬三の足跡の一端が刻まれています。
  • 敬三は東京製綱、渋沢倉庫、清水建設の社史の目次に登場していますが、これらはいずれも渋沢栄一と縁の深かった会社です。
  • その他にも索引に敬三が登場する社史はいくつかあります。栄一とは比べるべくもありませんが、敬三もまた実業界に多くの足跡を残していることがわかります。渋沢史料館の企画展では、敬三が関わった会社団体300以上をリストアップした図も展示されています。

検索結果(抜粋)

年表の内容年月日『社史タイトル』
(発行所、発行年)
年表種別
参与制度の制定(渋沢敬三、利倉久吉)1932.01.26『渋沢倉庫百年史』(渋沢倉庫、1999)当社
常務取締役渋沢敬三副頭取に就任1941.12.18『第一銀行史. 下』(第一銀行、1958)株式会社第一銀行
副頭取子爵渋沢敬三日本銀行副総裁に就任の為め、当行副頭取を辞任さる。1942.03.14『第一銀行年表』(第一銀行、1942)
結城総裁辞任、第16代総裁に渋沢敬三が就任1944.03.18日本銀行百年史. 資料編』(日本銀行、1986)本行関係
渋沢敬三1944.03日本興業銀行五十年史. 年表』(日本興業銀行、1957)日銀総裁
結城日銀総裁辞任渋沢敬三就任1944.03埼玉銀行史』(埼玉銀行、1968)内外の一般情勢
幣原内閣(渋沢敬三)1945.10.09日本興業銀行五十年史. 年表』(興銀、1957)内閣(大蔵大臣)
幣原内閣成立(渋沢敬三、蔵相に就任)1945.10.09日本火災海上保険株式会社70年史. 年表・索引』(日本火災海上、1964)一般事項
幣原喜重郎内閣成立(蔵相に渋沢敬三が就任)1945.10.09日本銀行百年史. 資料編』(日本銀行、1986)その他
幣原内閣成立(蔵相渋沢敬三)1945.1埼玉銀行史』(埼玉銀行、1968)内外の一般情勢
創立総会開催、取締役社長に渋沢敬三・専務取締役福田耕、取締役に肥爪亀三・森下新・山岸重孝・花岡薫・新堀正義・難波捷五・立花章・原安三郎・藤山愛一郎・杉道助、監査役に奥村重正・古野伊之助・伊藤次郎左衛門就任1953.03.20国際電信電話株式会社二十五年史』(国際電信電話、1979)KDD事項
金融制度調査会設置法公布施行(7・2第1回会合において渋沢敬三、会長に互選)1956.06.07『第一銀行史追録 : 稿本』(第一銀行、1977)参考事項
取締役社長渋沢敬三退任、取締役会長に渋沢敬三、取締役社長に町田辰次郎、専務取締役に大野勝三就任(臨時株主総会)1956.09.15国際電信電話株式会社二十五年史』(国際電信電話、1979)KDD事項
取締役高杉晋退任、渋沢敬三、矢野一郎就任、監査役三矢宮松退任、吉田清二就任1956.10.19『帝国ホテル百年史』(帝国ホテル、1990)当社事項
取締役会長渋沢敬三、取締役肥爪亀三・立花章・原安三郎、監査役佐々部晩穂・八藤東禧退任取締役に八藤東禧・竹内彦太郎・清田良知佐々部晩穂、監査役に肥爪亀三・立花章就任(第十回定時株主総会)1958.05.30国際電信電話株式会社二十五年史』(国際電信電話、1979)KDD事項
取締役社長町田辰次郎退任、取締役社長に渋沢敬三就任(第十四回定時株主総会)1960.05.30国際電信電話株式会社二十五年史』(国際電信電話、1979)KDD事項
渋沢敬三(元日銀総裁)、相談役に就任1961.06清水建設二百年. 経営編』(清水建設、2003)当社のあゆみ
定款変更(取締役定数一名増十三名、専務取締役制を廃止し取締役副社長常務取締役制を採用、会長制の項削除)取締役社長渋沢敬三、取締役佐々部晩穂、退任取締役社長に浜口雄彦、取締役副社長に大野勝三、常務取締役に山岸重孝・八藤東禧・新堀正義・難波捷吾・花岡薫、取締役に板野学・鈴木亨市就任(第十八回定時株主総会)1962.05.30国際電信電話株式会社二十五年史』(国際電信電話、1979)KDD事項
取締役渋沢敬三死去1963.10.25『帝国ホテル百年史』(帝国ホテル、1990)当社事項
初代取締役社長渋沢敬三死去1963.10.25国際電信電話株式会社二十五年史』(国際電信電話、1979)KDD事項
相談役渋沢敬三、死去1963.1清水建設百七十年』(清水建設、1973)当社のあゆみ-一般
目次の内容掲載ページ『社史タイトル』
(発行所、発行年)
写真 / 共存共栄 渋沢栄一翁・書 渋沢敬三氏・解説巻頭『東京製綱株式会社七十年史』(東京製綱、1957)
はしがき 渋沢敬三巻頭『渋沢倉庫六十年史』(渋沢倉庫、1959)目次
第五章 戦後復興の時代(昭和二〇年〜昭和三〇年) / 一 財閥解体と当社―本店事務所と茅場町表倉庫の接収 / 大蔵大臣渋沢敬三284『渋沢倉庫の80年. 1』(渋沢倉庫、1977)目次
題字 渋沢敬三巻頭清水建設百五十年』(清水建設、1953)目次
第四篇 昭和時代・終戦迄(一九二六〜一九四五) / 第一銀行ビル―渋沢敬三建築部長113清水建設百五十年』(清水建設、1953)目次
索引の内容掲載ページ『社史タイトル』
(発行所、発行年)
索引種別
渋沢敬三280;282三井銀行八十年史』(三井銀行、1957)人名・会社名
渋沢敬三196;197実業之日本社百年史』(実業之日本社、1997)人名索引
渋沢敬三43;57;132;268清水建設二百年. 経営編』(清水建設、2003)
渋沢敬三題;113清水建設百五十年』(清水建設、1953)
渋沢敬三507『丸の内百年のあゆみ : 三菱地所社史. 資料・年表・索引』(三菱地所、1993)主要人名索引
渋沢敬三442;736;752東洋経済新報社百年史』(東洋経済、1996)
渋沢敬三282日本電気株式会社百年史』(日本電気、2001)人名索引
渋沢敬三196蛇の目ミシン創業五十年史』(蛇の目ミシン、1971)

参考リンク

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 「同志社」を検索すると - 人名団体名編

 NHK大河ドラマ「八重の桜」では、新島襄(にいじま・じょう、1843-1890)がいよいよ同志社の設立にとりかかりました。そこで「同志社」をおもしろ社史検索してみました。年表データが1件、索引データが6件ヒットしましたのでご紹介します。

検索結果からみえてくること

  • 1件ヒットした京都ホテルの年表データには、1899年(明32)の同志社社員総辞職問題というのが取り上げられていました。これは新島壌没後に同志社の組織運営をめぐって発生した問題の一つで、同年3月法人組織をめざした「同志社寄付行為証」の制定により解決をみたそうです(『同志社五十年史』同志社校友会、1930、p390-391)。ホテルの社史にはそこで行われた会合やイベントについての情報が多々掲載されています。
  • 清水建設大林組の社史の索引データには、それぞれ同志社の施設建設の記録が掲載されています。社史本文には、建設した建物の写真とともに、名称、竣工年、所在地、発注者、設計者が記されています。

検索結果

年表の内容年月日『社史タイトル』
(発行所、発行年)
同志社校友会の在京の同志社校友40余名、京都ホテルに会し同社員総辞職事件の善後策を協議する。1899.01.23『京都ホテル100年ものがたり』(京都ホテル、1988)
索引の内容ページ『社史タイトル』
(発行所、発行年)
同志社アマーストビルヂング(アーモスト館) 193296清水建設二百年. 作品編』(清水建設、2003)
同志社女学校(静和館) 191130清水建設二百年. 作品編』(清水建設、2003)
同志社女子中学・高等学校静和館(JV) 199330清水建設二百年. 作品編』(清水建設、2003)
同志社大学 / 田辺キャンパス680;681;716大林組百年史』(大林組、1993)
同志社大学 / 図書館321大林組百年史』(大林組、1993)
同志社大学 / 理科学館532大林組百年史』(大林組、1993)

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 「内国勧業博覧会」を検索すると - ことがら編

 NHK大河ドラマ「八重の桜」では、東京へ遷都した後さびれてきた京都を再興するために、博覧会の開催が検討されていました。明治期に5回開催された内国勧業博覧会は、第1〜3回が東京、第4回が京都、第5回が大阪でした。そこで「内国勧業博覧会」をおもしろ社史検索してみたところ、163件ヒットしました。その中から京都で開催された1895年(明治28)の年表データ20件を抽出しましたのでご紹介します。

検索結果からみえてくること

  • 京都で開催された第4回内国勧業博覧会は、1895年(明治28)4月1日から7月31日までの会期でした。4月以前の分は博覧会が開催されたこと、それぞれの会社が博覧会に揮発油やランプなどの製品や造船所などの写真を出品したこと、会場の売店で製品(ビールか)を販売したこと、などが現れています。
  • それに対し7月以降の分では、出品した製品がどのような賞をとったかということが記載されています。綿糸、洋紙、菓子あるいは製綱製品や煉瓦などさまざまな種類の製品が出品され、「進歩賞」や「有功賞」といった賞を受賞していることがわかります。

検索結果

年表の内容『社史タイトル』
(発行所、発行年)
年表種別
京都に於いて、第4回内国勧業博覧会開催(店主審査官)1894.05
[1895]
『稲畑八十八年史 : 1890〜1978』 (稲畑産業、1978)年表(時の流れ)
第4回内国勧業博覧会に規則書、統計表を出展1895.02.20日本生命百年史 下巻』(日本生命、1992)年表(本史 資産運用・関連事業・事務他)
第4回内国勧業博覧会へ長崎造船所船渠及び工場の写真を出品 1581895.03三菱重工業株式会社史』(三菱重工、1956)年表(総務人事)
第4回内国勧業博覧会 京都で開催1895.04.01『創業100年史』(品川白煉瓦、1976)年表(一般主要事項)
京都に於て第四回内国勧業博覧会開催1895.04.01七十七銀行』(七十七銀行、1954)年表(一般情勢)
第4回内国勧業博覧会(京都)に揮発油・ランプ油・機械油を出品1895.04.01日本石油百年史』(日本石油、1988)年表(日石関係事項)
第4回内国勧業博覧会が京都で開催1895.04.01『虎屋の五世紀 : 伝統と革新の経営. 通史編』 (虎屋、2003)年表(業界・一般事項)
第四回内国勧業博覧会(京都)1895.04.01『大塚製靴百年史』(大塚製靴、1976)年表(一般)
第4回内国勧業博覧会(京都)場内に売店開設1895.04『Asahi 100』(アサヒビール、1990)年表(大阪麦酒)
京都で第4回内国勧業博覧会開催1895.04関西電力五十年史』 (関西電力、2002)年表(電気事業・社会一般)
内国勧業博覧会嘉祥菓子を販売1895.04『虎屋の五世紀 : 伝統と革新の経営. 通史編』 (虎屋、2003)年表(当社事項)
第4回内国勧業博覧会において、一等進歩賞が授与される1895.07.11『東京製綱百年史』(東京製綱、1989)年表(当社および関連会社)
第4回内国勧業博覧会開催(京都)、ペンキ出品、3等賞受賞1895.07.11日本ペイント百年史』(日本ペイント、1982) 年表(当社100年の年表―明治14年〜昭和56年)
第4回内国勧業博覧会に鉱産品を出展1895.07.11『創業百年史. 資料』(同和鉱業、1985)年表(藤田組編当社・関係会社事項)
第四回内国勧業博覧会に出品の洋紙各品種に対して名誉銀牌を受領1895.07王子製紙社史. 附録篇 』(王子製紙、1959)年表(当社関係)
第四回内国勧業博覧会で有功一等賞賞牌を援与される1895.07『日本煉瓦100年史』(日本煉瓦、1990)年表(当社の歩み)
第4回内国勧業博覧会京都で開催され尼崎紡績製品は有功2等賞を受ける。1895.07『ニチボー75年史』(ニチボー、1966)年表(尼崎紡績)
第四回内国勧業博覧会ニ ペンキヲ出品シ三等賞受領1895.07日本ペイント株式会社五十年史』(日本ペイント、1949)年表
福紡 第4回内国勧業博覧会へ出品した綿糸に対し有功2等の褒賞を受章する1895.11.06『敷島紡績七十五年史』(敷島紡績、1968)年表(当社・関係会社)
第4回内国勧業博覧会で進歩2等賞(耐火煉化石)を受賞1895『創業100年史』(品川白煉瓦、1976)年表(品川白煉瓦関係)

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 「会議は踊る」を検索すると - ことがら編

 宮崎駿監督の新作映画「風立ちぬ」では、主人公が滞在する軽井沢のホテルで出会ったドイツ人が、ピアノを弾きながら"Das gibt's nur einmal"(ただ一度だけ)という歌を歌います。この歌は1931年公開のドイツ映画"Der Kongress tanzt"(会議は踊る)の主題曲です。そこでタイトルの「会議は踊る」をおもしろ社史検索してみました。3件ヒットしましたのでご紹介します。

検索結果

年表の内容年月日『社史タイトル』
(発行所、発行年)
年表種別
「会議は踊る」独ウーファ、「海の密室」パ社、(実演)村田嘉久子出演「女心を誰か知る」。1934.01.27『帝劇の五十年』(東宝、1966)年表(主要興行年譜)
「会議は踊る」続映、「東洋の母」松竹蒲田。1934.02.01『帝劇の五十年』(東宝、1966)年表(主要興行年譜)
「会議は踊る」独ウーファ、「未完成交響楽」、独ツイネ。1937.07.01『帝劇の五十年』(東宝、1966)年表(主要興行年譜)

検索結果からみえてくること

  • 映画『会議は踊る』は1814年のウィーン会議を背景にした作品で、舞踏会に明け暮れ会議が少しも進まない、という状況をもじったタイトルです。『帝劇の五十年』の年表には、この映画が帝国劇場で1934年(昭9)と1937年(昭12)に上映されたことが記されています。本文の解説には「会議は踊る オペレッタ映画の名品、ウィーンを背景とした華麗なコスチューム絵巻、リリアン・ハーヴェイ、ウイリイ・フリッチ、コンラート・ファイトなど出演、エリック・シャレル監督。(独ウファ)」と書かれていました(p68)。
  • 同社史によると帝国劇場は1907年(明40)の開場から舞台作品を上演していましたが、興行不振等で1929年(昭4)松竹に経営が移り、1930年代は外国映画の封切館となっていました。社史には「旅愁」「モダン・タイムス」「舞踏会の手帖」など封切られた数多くの映画の紹介とスチール写真が掲載されています。

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 「カブトビール」を検索すると - ことがら編

 宮崎駿監督の新作映画「風立ちぬ」を観てきました。主人公が三菱内燃機に就職し工場のある名古屋駅に降り立つと、「カブトビール」の大きな看板が目に飛び込んできました。そこで「カブトビール」をおもしろ社史検索してみました。4件ヒットしましたのでご紹介します。

検索結果

年表の内容『社史タイトル』
(発行所、発行年)
年表種別
盛田善平、丸三麦酒醸造所創立(後のカブトビール)1887麒麟麦酒株式会社五十年史』(麒麟麦酒、1957)年表(ビール業界)
丸三麦酒、カブトビールを発売1898麒麟麦酒株式会社五十年史』(麒麟麦酒、1957)年表(ビール業界)
丸三麦酒「カブトビール」(兜印)発売1899『Asahi 100』(アサヒビール、1990)年表(酒類・食品業界)
索引の内容掲載ページ『社史タイトル』
(発行所、発行年)
索引種別
カブトビール190サッポロビール120年史:since 1876』(サッポロビール、1996)索引(事項)

検索結果からみえてくること

  • 「カブトビール」は愛知県半田に創業した丸三麦酒が発売した麦酒ですが、麒麟麦酒の年表には丸三麦酒の前身である丸三麦酒醸造所の創立が記載されています。
  • 「カブトビール」の発売年について1898年(明31)と1899年(明32)の年表記述がありました。『サッポロビール120年史』の索引から本文を見ると丸三麦酒の詳細が書かれており、それによると1898年は「カブトビール」の商標登録年、1899年が発売年であることがわかりました。
  • 同社史によると丸三麦酒はその後、日本第一麦酒(株)→加富登麦酒(株)→日本麦酒鉱泉(株)と社名が変遷し、1933年(昭8)大日本麦酒(株)に合併しました。「カブトビール」ブランドは戦争末期に統制により銘柄別の生産が廃止されるまで、丸三麦酒を継承した各社から発売され、人々ののどを潤していました。半田工場は1943年(昭18)11月まで製造を続け、企業整備令により翌年中島飛行機(株)に売却されました。

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 「堀辰雄」を検索すると - 人名団体名編

 宮崎駿監督の新作映画「風立ちぬ」が話題を呼んでいます。そこで小説『風立ちぬ』の著者「堀辰雄」をおもしろ社史検索してみました。1件ヒットしましたのでご紹介します。

検索結果

索引の内容掲載ページ『社史タイトル』
(発行所、発行年)
索引種別
堀辰雄上巻330『丸の内百年のあゆみ : 三菱地所社史. 資料・年表・索引』(三菱地所、1993)主要人名索引

検索結果からみえてくること

 堀辰雄(ほり・たつお、1904-1953)は昭和前期に活躍した作家ですが、三菱地所の社史の索引に名前が登場していました。本文をみたところ、関東大震災後の「郊外住宅地の発展」という項目の中に、次のように書かれていました。

 東京の郊外、山の手の新興住宅地の住民になった人々は、サラリーマンや官吏・軍人などが多かったが、田端(現北区)、落合(現新宿区)、馬込(現大田区)や長崎(現豊島区)などには文士村やアトリエ村が誕生した。こうした自然の残る環境の良い、しかも家賃の安い住宅地域に芸術活動の場を移す人たちが出てきて、独特の雰囲気を醸しだしていた。たとえば、田端の文士村には芥川龍之介室生犀星萩原朔太郎中野重治堀辰雄菊池寛平塚らいてうなど、多くの小説家、詩人、評論家をはじめ画家、詩人、彫刻家などが住んでいた。
(同社史 上巻 p329-330)

 不動産会社の社史だけに、当時の郊外住宅地の様子が垣間見えます。堀辰雄芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ、1892-1927)と交友があったそうですが、なるほど近くに住んでいたのでした。

参考リンク

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